2021.08.13

【対談】三浦哲哉・蘆田裕史「データとアナロジックな想像力:ファッションと料理をめぐって」

#言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ
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ファッション研究者、京都精華大学デザイン学部准教授・蘆田裕史氏とお送りする特集企画「言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ」。今回は、映画批評家、青山学院大学准教授の三浦哲哉氏をお迎えし、対談を行いました。

『食べたくなる本』で料理本や料理エッセイをめぐる批評が話題となり、『LAフード・ダイアリー』では食生活エッセイも執筆している三浦氏。料理とファッション、ともに感覚をに基づく領域で批評に取り組む両氏が交わした、感覚を表現する言葉とデータの関係性から生活とサステナビリティまで、多岐にわたる対話をお届けします。

PROFILE|プロフィール
三浦哲哉

1976年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。専門は映画研究。食についての執筆も行う。著書に『LAフード・ダイアリー』(講談社、2021年)、『食べたくなる本』(みすず書房、2019年)、『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店、2018年)、『映画とは何か──フランス映画思想史』(筑摩選書、2014年)、『サスペンス映画史』(みすず書房、2012年)。

PROFILE|プロフィール
蘆田裕史

1978年生。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位取得退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、現在、京都精華大学デザイン学部准教授/副学長。専門はファッション論。著書に『言葉と衣服』(アダチプレス、2021年)。訳書にアニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク編『ファッションと哲学』(監訳、フィルムアート社、2018年)などがある。ファッションの批評誌『vanitas』(アダチプレス)編集委員、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。

感性を形成する習慣

料理を参照項に、ファッションを論じる

蘆田:

僕の問題意識として、ファッション(デザイン)の批評が成立していないということがあります。受け手(服を買う人・着る人)のことを考えると、多くの場合「かわいい/かわいくない」、「かっこいい/ダサい」という基準で服を買ったり着たりします。

料理も同じように、「おいしい/まずい」というのが最も大きな判断基準としてあって、それも同じく感覚的なものですよね。そこがファッションと食が似ているところであり、映画や美術とは異なるところじゃないかと思っています。一方で、ファッションと食とでは違う部分もあって、料理はきわめてロジカルに作られますよね。

三浦:

たとえばパン作りなどもそうですが、料理には化学の実験みたいな側面もあって、論理的に作らないと失敗することもあります。

蘆田:

ファッションだと、「なんでここにファスナーがついているんですか?」と尋ねても、「その方がかっこいいから」とだけ言われたりすることがあります。でも、「ぶり大根を作るときに大根を米のとぎ汁で煮るのはなぜですか?」と聞かれた料理人が、「いや、よくわかんないけどその方がおいしい気がします」と言っていたら、その料理人に対する信頼感はあまり高くならないですよね。

僕は料理のことはまったく詳しくないのですが、料理人はかなりロジカルに考えているんじゃないかと想像しています。なので、食をひとつの参照項として考えると、これまで比較されることの多かった美術やデザインとは異なるアプローチでファッションについて考えることができるのではないか、と。

三浦:

なるほど、おいしいとかまずいという直感的な判断と、とりわけ制作にかかわる論理的な判断がどういう関係にあるかということですね。僕は料理の本が好きで、「料理本批評」を試みた『食べたくなる本』を書いているんですが、この関係について振り返ってみると、とても複雑だし、検討に値いする興味深いゾーンを成していると思います。直感と論理やデータの関係について、衣服の場合と比較してみると、たしかに何か浮かび上がるものもあるかもしれませんね。いくつか具体例を取り上げながら考えてみたいと思います。

最初に取り上げたいのは樋口直哉さんの料理書です。『新しい料理の教科書』が大変評判で、僕もすごく面白いなと思いながら読みました。樋口さんは小説も書いている方で、料理をどう記述するかという方法論的な意識も極めて高い。基本的に最近の書き物においては、データを重視し、曖昧さを排した客観的な記述をどこまで徹底できるか、ということを試しておられるように思います。

ここ数十年ぐらい調理科学はとても注目を浴びるようになっていて、例の「分子調理」を打ち出したエル・ブリ以来、一部の高級レストランでも盛んに応用されるようになりました。樋口さんは調理科学の調査に余念がなく、『新しい料理の教科書』では、その最新の知見に基づいて、日本の家庭の定番料理をぜんぶきっちり見直すということをしています。それまで常識とされていた卵焼きの作り方とか、肉の焼き方、そういうものがいかに改良の余地があるものだったかを指摘する本になっているんですね。もっと合理的な手順があるじゃないかと。とても痛快で、自分も読んでいて、勘違いばっかりしていたな、と気付かされました。

ただですね、樋口さんの言う最も合理的な調理法で作られた料理が最高においしくて、ある意味、樋口式が究極の終着点なのかと言えば、そういうことでもないだろうと思うんです。樋口さん自身も、柔軟な方だから、そこまで考えているわけではない。樋口式が普及して、みながそれに慣れたあとで、ふと、かつての迷信に凝り固まった、不合理なこだわりに充ちた手順の料理を口にする機会があったら、そっちに驚きと感動を覚える、ということもありうると思うんです。ノスタルジック、というだけではなくて、一周して新鮮だ!みたいな。そこが料理の面白いところです。

たとえば「リソレ」という、肉の表面を焼き固める工程があって、昔の料理本にはこれをすべしと盛んに書かれていました。煮込み料理を作るときなど、まず「リソレ」すると、そこが壁になって、肉の中の旨味成分が逃げ出さなくなる、と説明されていたんです。しかし、現在のキッチンサイエンスだとその効果は否定されています。だからリソレを省いてよし、と書く場合もありますが、でもあの肉の壁がないと何か物足りないですよね。その物足りなさの正体に、関心があります。流出は防いでいなかったのだとして、副次的な効果はあるのかもしれないし、壁ができているのが単純に美的にかっこいい、と思うのは、主観的には自由です。

数値と想像力の遊戯

蘆田:

旨味が逃げ出しているというのは、科学的にはどうやって説明されるのでしょうか?

三浦:

それは完全に実証科学の手法ですね。たとえばリソレありとなしとで、肉塊の中の旨味成分の含有量を比較する。ただ、こうした実証科学で判明するデータというのは、やはり、総合的かつ直感的な判断としての「おいしさ」をすべて説明できるものではないと思います。それはこの分野の科学者たちが率先して認めているところでもあります。

では、旨味成分の量に還元されない「おいしさ」の要素とは何か、というと、これはいろいろなことが言えると思うんですが、ひとつに、アナロジックな想像力が重要だと思います。『食べたくなる本』の最後の方で触れたことですが、少し呪術的な想像力といってもいいんだけれども、物質の循環をイメージすることが、おいしさの経験と不可分なんだと思います。「リソレ」も、作り手が肉の表面に壁を作って肉汁を、とイメージしながら物質とある種、交感し、食べ手も、まさに「リソレ」という言葉を手がかりに、この肉に起きたことをイメージしながら食べた。結局、肉汁を保つ効果はなかったということがわかったから(あるいは、壁の焼き焦げの濃い味わいを、保たれた肉汁と混同していたことがわかったから)、もうそれは廃れてしまうでしょう。しかし、「リソレ」の語のもとに、そうした想像力のかたちがかつてあったことは事実であるわけです。

ほかにたとえば昆布で出汁を取るというのは、数値や化学の話で言うと、そこからグルタミン酸を抽出することでしかありません。でも同時に、昆布で出汁を取るという行為自体が、ある種の想像へと人を誘う側面もあります。北海道の利尻だとか羅臼の海底でたゆたっていたものが浜に流れついて、それを生産者のおじさんだとかおばさんが乾かし、昔だったら北前船で順番に日本の港に運ばれてきてっていう、そういう大きなプロセスを背後に想像できる。要するに、椀物を賞味するというのは、海の景色を椀の中で再現して楽しむという美的な行為ですよね。もし仮に、数値的に全く同じ旨味のものが再現できて、なおかつ昆布のフレイバーを化学的に合成できようになったとしても、それは全く別物ですよね。

昔の料理本を読むと、データよりも、こういうイマジネーションにこそ重きが置かれていることが少なくありません。たとえば鎌倉在住の料理研究家の大御所でいらっしゃる辰巳芳子さんの文章を僕はすごく好きなんですけれど、辰巳さんの調理の記述は、もちろん良い意味で、正真正銘のポエムだと思います。加熱をするときの火加減の説明なども、鍋の表面のスープが微笑む程度とか、人参をゆったり湯船につけてリラックスしてやるようにとか書いてある。客観的には、もちろんスープが微笑んでいるわけではないですけれど、辰巳さんのイマジネーションの中では、物質との生き生きとした交流がある。辰巳さんの本で学べば、台所作業が苦痛ではなくなり、比喩の力で、血の通った何かになるということはありうると思うんです。

「料理本」は、独特の文学ジャンルである、というのが僕の持論でして、こういうたぐいの想像力に独特の言葉を与えた著述家たちを『食べたくなる本』では取り上げました。高山なおみさんや細川亜衣さんなどは、優れた料理研究家であることと、優れた文章の表現者であることが完全に同じ意味をもっています。したがって、『料理の新しい教科書』が出たあと、彼女たちの調理法がすべて古びる、ということはもちろんないわけです。客観的な検証に耐えうるか、合理的か、という観点からは、最新でないかもしれないし、あるいは修整の余地があるかもしれないけれど、ポイントは、調理素材との間で生きられたイマジネーションに独特の詩的表現が与えられていることだからです。

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おいしさは習慣から形成される

蘆田:

今のお話は「作り手」が何を作っているか、あるいは作ろうとしているかに関する分析ですが、『LAフード・ダイアリー』ではどちらかというと、三浦さん自身が料理を食べる「受け手」として描写していく形ですよね。以前は主に料理を作ることについて考えていた三浦さんが、今度は食べる側として書くようになって、見えてきたことや、考えの変化はありましたか?

三浦:

はい。LAでは食べ手として書くということをしましたが、そこであらためて感じたことは、「おいしさ」がひとつではないということですね。なんでそんなものを「おいしい」と言うのか!というような料理がものすごく雑多に混在していました。客観的なひとつの基準でそれら雑多な料理群を判定できるわけがないし、また、この多様性こそが価値であると思われました。LAは、移民たちがモザイク状にそれぞれのテリトリーを囲ってできていて、それぞれのレストランでは、同胞向けのきわめてディープな料理が提供されています。驚きの味、とても受け付けられないんじゃないかという味にも出会いました。

ジョナサン・ゴールドというレストラン評論家がいまして、2018年に亡くなったんですが、80年代以降の移民の増大によっていよいよ多様性を増すことになるこの都市に特有のフードシーンをユーモアたっぷりに観察するとてもすばらしい文章を残しています。その文章を読みながらLAのレストランを食べ歩くということをしました。ゴールドはこういうことを言っています。「1000のレストランがあれば、1000の偉大さがある」。何をもっておいしいとするか、という基準そのものが、極限すれば、レストランの数だけある。

LAというのは本当に奇妙な場所で、ある意味で植物園とか動物園に近いのかもしれませんが、千差万別の食のかたちが、ひとつの都市の中に、雑多に併存しています。だからお互いに自分の「おいしさ」を相対化できるし、これもひとつの習慣にすぎなかったのだな、とごく自然に思えます。

「習慣」について言うと、移民たちのエスニック料理とはちがう、人工性の極致のようなアメリカンフードもとても興味深かったです。インダストリアルな食は、日本では条件反射的に悪だとする論者が多くいますが、アメリカ的日常においてはごくふつうなんですよね、やっぱり。ピザを頬張りコーラで流し込むのがうまい、という感覚がある。私もアメリカにしばらくいて、そういう食への抵抗感がどんどん薄れていきました。ただ、久しぶりに繊細な和食を食べる機会があると、そっちももちろん感動的においしい。複数のおいしさ、それを支える習慣が、地層のように折れ重なり、自分の体の中にいびつに併存するようになってきたという実感がでてきました。これは一体なんだろう、伝統的な美食論には収まらない何かがここにあるのではないか、と思えて、『LAフード・ダイアリー』を書くきっかけになったというわけです。

料理は頭でも味わうもの

蘆田:

1000の料理があれば1000の基準があるというのは、「みんなちがってみんないい」、つまり良し悪しの評価をしないという立場につながってくるような気もします。それでもなお、ひとつの慣習のなかで、このお店(この料理)はおいしい/おいしくないという判断はありえるのでしょうか?

三浦:

たしかに、直感一辺倒で、おいしいものはおいしいからおいしいのだ、というだけならば、みんな違ってみんな良しで終わってしまうと思います。おいしいという直感とは別の、理性の介入が、やっぱり必要ですよね。より洗練された調理法が可能であったはずなのにと判断するとか、あるいは、その食を取り巻くさまざまな文脈、たとえば環境への負荷とか、長い目で見て自分の健康にどんな影響を及ぼすのかとか、そういう判断は、純粋に舌と鼻でするのではなくて、理性によるものですよね。

蘆田:

なるほど。頭で味わうときの基準って、どんなものがありえるんでしょう。三浦さんは料理を食べるとき、どのように判断をしているのですか?

三浦:

僕は栄養学にはまったときもあって、そのときは、栄養があるかないかを重視していました。有機栽培の玄米を圧力鍋で炊くとかですね。まあ玄米はほんとにおいしいと思いますが、ケールとかになると、頭で食べているというかんじかもしれないですね。知識として体によいとわかっていなければ吐き出しかねない味の食品というものはあります。

あとは、図鑑を読んで喜ぶみたいなかんじも自分には強くあるのかなと思います。味わったことのない味や、嗅いだことのない匂いを経験したい。知識欲が先行しているのかなと思います。それから、一番興味があるのは、自分が持っているのとはちがう「習慣」にしたがって構築されている美味の世界がどういうものか、ということですね。メキシコ料理のある地方の料理の体系とか、韓国のある地方の料理の体系に身を浸して、慣れてみて、それではじめて見えるようになる異質な風景がどんなものかを知りたい。これも最初はちょっと苦行みたいなかんじになるので、信念が先行していないとむずかしいことかもしれません。いまはまずいけど、慣れればおいしくなってくるにちがいない、という信念がないと、実行できないですから。

ワインの世界にもすごく魅力を感じています。死ぬまでに、世界の千差万別のテロワールを堪能してみたいと思うんですが、でも他方で、これは完璧に資本主義の論理に乗っているだけではないか、という疑念もあります。商品をひたすら細分化して、その差異の魅力で買わせようとする側の要求に自分は純朴に応え続けているだけと言われれば反論するのはなかなかむずかしい。

蘆田:

資本主義の話でいうと、ボードリヤールの議論などがそうですが、消費社会は差異を生み出すことで消費を促すと言われてきています。ワインもそれぞれ香りが違うというのは確かにそうかもしれないけれども、資本主義の大量生産大量消費のやり方で、微小な差異を生み出しているとも言えるかもしれません。料理の世界では、こういったことが批判されることはなく、つねに肯定的なものになっているのでしょうか?

三浦:

「テロワール」を尊重というと、いかにも環境に善いことをしているみたいですが、真の動機は、要するにピエール・プルデューのいうところの「ディスタンクシオン」(貧富の格差を見せびらかす行為。階級格差の再生産に与する)かもしれないし、あるいはただ単に投機の手段なのかもしれない。ワインを温度管理して輸送するためには相応のエネルギーが必要だから、環境負荷だってそれなりに高いでしょう。エコロジーとかダイバーシティといった言葉は、そうした事実の隠れ蓑として機能してしまうことがありますよね。こういう批判は、グルメ雑誌にはまず載らないですよね。

データと想像力の役割を腑分けする

理想と科学的事実

蘆田:

今までのお話で出てきた、料理の科学的な分析、習慣、多様性の肯定、アナロジックな想像力を見出していくこと、これらは対立するものなのでしょうか?それとも、統合されていくのでしょうか?

三浦:

統合を目指したいですよね。そのためには互いの役割を腑分けするということが必要だと思います。そうすれば、悪しき混同にも、排他的な対立にも陥らず、よいしかたでの統合への道が開かれるはずですから。データを重視する実証科学的なやり方でしか進められないことがあるし、同様に、アナロジックな仕方でしか進めないこともありますよね。一方が他方を敵視するというのが一番不毛で、両者が補い合う関係をどう取り持つかを考えるのが大事です。

このことは蘆田さんの『言葉と衣服』から学んだことでもあります。蘆田さんは、ファッション批評の世界で、もともと異なる事柄を指し示していたはずの概念がきちんと定義されないまま、いかに曖昧に混同されて用いられているかを指摘し、「切り分け」の必要性を説いています。食をめぐる言説もおそらくまったく同様で、良くないのは、悪しき混同だと思います。

たとえば、いわゆるオーガニックな食を言祝ぐたぐいの言説でも、厳密なデータで語るべきことが口当たりのいいアナロジーで説明されてしまうということが頻繁に起きています。有機農法こそが、持続可能な食の未来を実現させる、と語られますが、数値だけ見れば、必ずしもそうは言えない側面があります。

蘆田:

それはどういう意味でしょうか。

三浦:

土地あたりの生産効率が悪いということです。近代農法の生産性に比べると段違いに劣るという客観的事実があります。もちろん品質と味はよいのでしょうが、有機農法だけで、現在の80億に迫ろうとする人口は養えない。農薬や遺伝子組み換え技術を用いる近代的大規模農法は悪だから一切合切ただちに淘汰してしまえということは、きわめて暴力的な主張です。オーガニック食品にアクセスできるのが、世界全体で見ればごく一握りの富裕層でしかないことを考えれば、エスタブリッシュメント層の奢りと無知としか言いようがない。

この点については、ポール・B・トンプソン『食農倫理学の長い旅──〈食べる〉のどこに倫理はあるのか』を取り上げておきたいです。「持続可能性」をめぐって、すくなくとも、3つの基準を切り分けなければならない、とトンプソンは述べています。1つめは、食料充足性。地球の人口を養いうるかどうか。貧者に残酷なしわ寄せがいかないか。この基準においては遺伝子組み換えを含む新技術が「善」とされます。2つめは、生態学的健全性。生産性をただ単純に高めても、それが土壌の荒廃を伴うのだとすれば、長い目で見て「持続可能」ではありません。この文脈では、自然環境を健全に保つための昔ながらの多品目栽培の方法が見直されたりもします。3つめは、社会学的持続可能性。単一の農産物を広大な農地で作るモノカルチャーが徹底されると、村や街の社会的多様性が失われ、結果として、農業地帯における人間の生活から豊かさが失われます。循環型農業と共同組合とによるまちづくりの取り組みなどが望ましいとされるのは、この3つめの基準においてです。

ただ、このどれか1つを単純に追い求めるだけでは不十分、ということです。この3つの基準をすべて尊重し、そのうえで、柔軟にバランスを取る必要があるということです。現実にはなかなかそうはならないですよね。エコロジカルな生活と、遺伝子組み換え技術が両立するはずはない、という思い込みは強いですから。

蘆田:

三浦さんの『LAフード・ダイアリー』でも、多様な食を享受できるのはエリート層だけだという話がありましたが、ファッションも同じです。たとえば、高級な服飾品の多くは権力者や富裕層が自分の富を見せびらかすために消費するもので、かっこいいから着るとか、着心地が良いから着るといった話ではないはずです。

伝統産業や伝統文化を残さないといけないという意見には基本的には同意するのですが、そうしたもののなかでも「高級品」を残していくことは結局、格差の構造を維持していくことにもなる。そういったことを、僕もファッションで考えていて、文化を残すということが、富裕層だけの娯楽になりかねないことは、きちんと考えないといけないなと思っています。そのあたりがファッションと食が似ている部分で、生活必需品だからこそ起きてくることなのかなと話を聞いていて思いました。

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敵対化ではない組み合わせ

蘆田:

ファッションだと、「オーガニックコットンだから肌に優しい」みたいなことを言う人がいるのですが、これも非科学的な発言ですよね。オーガニックコットンだから肌に良いなんてことはなく、普通のコットンでも、触っただけで農薬が付着するくらい残留していたら相当やばいので、現代社会では考えにくいです。

三浦:

ジャン=ポール・ジョーさんという、農薬反対の市民運動をしているドキュメンタリストがいまして、かつてその人のインタビューをしたとき、「俺の匂いを嗅いでみろ!どうだ、臭くないだろ!オーガニックコットンを着ると発汗性が素晴らしいからだ!」って言われて、困りました(笑)

蘆田:

そこまでいくとスピリチュアルと紙一重ですね。

三浦:

焦点がそこかよ、とは思いますよね。オーガニック・コットンの「気持ちよさ」で押し切れるのか、という。農薬不使用だと感覚的に安心というのはわかるけど、雑草を誰が抜いているのかも気にしたいですね。綿栽培を有機に切り替えることは経済学的な観点からどう可能か、産業構造はどうなるのか、第三世界の雇用はどう変動するのか、ということも併せて考えたい。

僕はいま鎌倉に住んでいるので、ここでも日々考えさせられることが多いです。鎌倉とか逗子は、オーガニックなライフスタイルの発信地で、先駆的な活動に従事されている勉強熱心な飲食店や販売店もあって、とても多くのことを学ばせていただいています。でも、「俺の匂いを嗅いでみろ!」みたいな人もけっこういる。スピリチュアリズムと「おいしさ」の関係というのは本当に複雑で、これは今後も考えていきたいテーマです。LAにいたとき、ユダヤ教徒たちが自分たちの「清浄な食」をコーシャーといって売っていますが、はっとするおいしさだったんです。ものすごくそっけない卵の黄身のベーグル。現代の消費社会の中にガラパゴスみたいな空間を囲う力が、確実に、宗教にはあって、その貴重さはちょっと否定しがたいと思うんです。

毎日、同じもので満足できるのか

蘆田:

ファッションだと無駄なものを作らないようにしようという潮流になってきています。ラディカルな人だと「新しい服なんていらない、すでに世の中にある服で賄える」と主張する人もいる。

ファッションと食は似ているとはいえ、ご飯を食べないと人間は死にます。服は着ないわけにはいかないかもしれないけど、同じ服を着ていても死なない。新しい服を作らなくても、生死に影響はありません。一方、食は食で、肉を食べることにも豚肉を食べることにも必然性はない。おそらくすべての食材に関して、それを食べなければならない必然性ってないですよね。循環型を推奨する人は、必然性がないものにどういうエクスキューズを持っているんでしょうか。

三浦:

たしかにそうですね。消費主義に加担したくないから、あるいは環境負荷を減らすために、良心的なワインを選択するということさえ飛び越えて、そもそも飲まないことこそが最善という判断だってありえますよね。自分に断酒はもう無理だなというかんじがしますが、蘆田くんは、同じ服でも大丈夫?

蘆田:

普段はついつい同じ服をきてしまうんですが、本来は違う服を着たいと思っています。
単純な話、服って自分のテンションを変えてくれますよね。日々の生活に変化をつけるには、違う服を着るのが手っ取り早いと思うんですね。Tシャツにジーンズでいるときと、スーツを着ているときとは、自分の心理も違うし、立ち居振る舞いも変わってくる。服は常に自分の視界に入ってくるし、自分の肌にも直に触れているものなので、精神的な部分を変えるのに効果的なツールだと思うんですね。

毎日同じで変化がないと、生活が機械的になってしまいます。人間の生きる意味とまでは言いませんが、単純に楽しくないと思います。

三浦:

都市生活には色々な場面というか、モードがありますよね。自分の家にひとりでいるときと、仕事のときと、夜に不特定の誰かと交流が生まれるような場所に赴くときとでは、同じ人間でもぜんぜん違う態勢になるし、それにふさわしいよそおいがある。それをチェンジすることが、都市生活に欠かせない刺激という気がします。

自分の知らなかった態勢の中に、衣服を通してまず擬似的に入っていく、ということもありますよね。自分の場合だと、通俗的な例になりますが、ジーンズを初めて買ったときは、リーバイスの広告を見て、アメリカの風通しのいい社会の在りようを思い描きながら履いてみたりしたと思うんです。衣服は「変身」のきっかけでもあって、それがなかったら、この社会はとてつもなく息苦しいという気がします。その点は食も同様ですよね。「変身」の入り口としての食が、選択肢としてどこかにあってほしい。

究極と凡庸の両輪

衰弱してまでの探究

蘆田:

少し話を変えて、多様性と画一性に関連して、僕が考えていることと絡めて話をさせてください。

ファッションの未来を考えると、これからしばらくは服装が画一化する方向に向かっていくとは思っています。みんなが同じようなもの着て、ラディカルなものが許容されなくなる。格差をなくしていこうすると、食べるものや着るものはおそらくみんな同じようなものになっていくだろう、と。そう考えたとき、それが良いことなのかは僕自身、よくわからなくて。

半分余談になりますが、僕の家の近くにおいしいパン屋さんがあるのですが、最近、週休3日にしますとアナウンスしていたんです。夫婦でやっているんですが、夫がパン作りにこだわりすぎて毎日白湯しか飲まないようになって体調を崩してきている、と。このままではまずいということで、休ませないといけないとなったみたいです。ストイックにこだわり、手間暇かけて究極のものを作り出すようなことって、個人の思想信条としては認められるのかもしれないけど、ワークライフバランスを考えなければいけない社会としては「そこまでしなくても…」となっていく。なので、究極の一品っていうのは服でも食でも出てきにくくなると思うんです。

食もファッションと同じように画一化していく方向性に行くのか、それとも別の方向に向かうのか、どちらなのでしょうか?

三浦:

パンの話がすごい気になりますね。そんなにおいしいんですか?

蘆田:

おいしいです(笑)。他にも、京都で1、2を争うと勝手に思っているパン屋さんがありまして、そこも天然酵母で2日発酵するなど、かなりこだわったパン作りをしているのですが、やっぱり店主が体調を崩してしまったみたいなんですよね。どれだけ頑張って自分の納得するパンができても、続かなかったり利益があまり出なかったりする。みんなおいしいとは言ってくれるけど、作り手は疲弊していく。それもある意味では搾取ともとれます。

三浦:

そば打ちでも、こだわり抜いて、石臼を自分の手でぐるぐる回して挽きたいから一日限定20皿しか提供できなくなった、みたいなことが美談として語られたりしますが、どうなんでしょうね。味と香りの「差異」を感知する人間の能力は、試そうと思うならば、じつは結構誰しもかなり微細なものまで感知できると思うんです。あえてパンとかそばとか、セッティングをミニマルにしたうえで、その「差異」の微細さを追求する、という道ですよね。それを突き詰めていけば唯一無二の何かに到達できる、というような幻想も抱いてしまいますが、下手をすれば病気になってしまう…。でも、パンって、昔に比べて全般にとてもおいしくなりましたよね。作り方と素材選びを間違えなければ、ふつうに感動できる香ばしいパンができると思うし、それでいい気もします。

日々、敏感になる必要はない

蘆田:

正直なところ、服も食も、そこそこの手間でそこそこおいしいもので良いんじゃないのかと思ってしまったりもするんですけど、それが本当に良いのかどうかは、よくわからないんですよね。自分の経験としても、子どもがいなかったときはおいしいレストランでゆっくり食事を楽しんだりもしていたけれど、最近はおいしいご飯を味わうことが疲れると思ったりもしてしまいます。

三浦:

その気持ちはわかる。

蘆田:

ファストフードの牛丼屋で牛丼を食べるのは疲れないけれど、おいしいフランス料理やイタリア料理を食べるのって、味わうことに神経を使うからすごく疲れます。そこそこ美味しいものの方が、気分が楽で疲れないと思ってしまうんです。年齢のせいかもしれませんが(笑)

三浦:

刺激の少ない退屈な味と、究極の繊細さを求める味、どっちも両輪としてあったらいいですね。重要なのは、どちらも別の基準のうえに成立しているのだから、両方認めて混同しないということです。両方を行き来して、その間でバランスを保たないと、それこそ病みますよね。

蘆田:

最近の社会はすぐ「敵か味方か」みたいな感じになりがちなので、うまくバランスを取れるようになってきたらいいんですよね。ファッションでも、ファストファッションは悪だとしばしば言われます。作り手のことを考えると、劣悪な労働条件で生産者を働かせているので、そこはどうにかしないといけないのですが、その一方で受け手のことを考えると、富裕層しか楽しめなかったおしゃれを庶民も楽しめるようになったというポジティブな面もあります。そう考えると、「それなりの値段のそれなりの質のもの」の方が政治的に正しいのかもしれません。

三浦:

ちなみに「安くていい服」というのは、いまありうるんでしょうか? だとすればどこにあるんですか?

蘆田:

ファストファッションの価格は、そもそも無茶をしないと成立しません。僕はビジネスには明るくないので、感覚的な話になってしまいますが、効率化できるところは効率化して、ある程度の量産をして、というやり方で、シャツ1枚が1万円台前半くらいというのが目指すラインなのかな、とは思ったりしています。

三浦:

ワインで言えば、「生態学的健全性」および「社会学的持続可能性」の両方に配慮した、いわゆる「自然な造り」のものだと、1本、2500円から4000円ぐらいでしょうかね。それぞれの蔵の標準的な瓶の価格がということですが。「自然な造り」を志すことは、消費主義から距離を取って自分たちのペースで土地とワインと向き合うことを意味しますが、そうすると決して安くはならない。ですので、僕は量販店の安酒も飲みます。どっちも必要です。

ファストファッションは、おもに子どものために買ったりすることがあって、まさに安くて助かるんですが、でもほんとプリントとかざりで違いをだしているだけで、素材そのものはぺらぺらだなあ、と感じます。逆に、そこそこの価格帯の衣服を見ると、素材へのこだわりを謳う商品が昔より圧倒的に増えていて、コットンならコットンの説明がものすごく長い。二極化ですよね。

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これからの文化の可能性

近代人の欲望

蘆田:

味だけではなく環境のことを考えると、普通の米よりも無洗米の方が家庭での水の消費量を減らせて環境にいい、という見方もできますよね。個人でやることを極力減らした方が、ゴミも減るし環境にも負荷をかけない。食のサステナビリティって、ファッションと一緒なのかなというのをぼんやり考えたりしています。

三浦:

サステイナブルな商品をわざわざ作って宣伝して売っているという無駄、があるわけですよね。かといって、本当に純粋な「無」に近づいていくのがよいとも思わない。僕は、やっぱり、さまざまなモードが混在しているのが健全だと思います。ただ、これも繰り返しになりますが、混在には、そこに存在する複数の異質なものをきちんと別々に尊重する場合と、あえて曖昧なままに混ぜて、しかもその詐術から利益を引き出そうとする場合があります。いわゆる「オーガニック商品」にせよ、この後者であるか、そのつど批判的な検討が必要だと思います。

蘆田:

食の未来的な話で言えば、カプセルで栄養と満腹感を得られるようになったら、多くの人がそれで満足するのか、とかも考えたりします。あとはVRでの完璧な旅行体験ができたり、白いTシャツに映像を映し出しておしゃれを楽しめるようになったりしたら人はそれで満足できるのか、とか。

三浦:

それでは満足できないというのが、近代の人間だと思いますけどね。「変身」の可能性というのは、人間の根本的な自由に関わるし、また、そういう自由を人間が追求することを認めたのが近代です。衣服と食に共通することかもしれませんけれど、身体の習慣にダイレクトに作用して、まったく別の感覚世界を開きうる、そのきっかけを与えてくれるものだと思うんです。まだ自分のものではない習慣に入る、その足がかりとして、食も衣服もある。僕はそういう身体変容の荒々しくもある魅力を食体験において一度知ってしまったら、もう後戻りはできないのではないかと思います。その擬似的な等価物で欲望をなだめておけ、というのは、自由の経験の否定だから。

食においては、近代以前への回帰がしばしば主張されていて、それがローカルフード礼賛に結びつくケースもありますが、これも誤解が多いと思っていまして。前近代において、本当に土着のものしか食べられない、という場合と、近代人がさまざまな選択可能性の中からある一つのローカルフードを食べる、というのはぜんぜん意味が違います。椎名誠の本の中で、2、3ヶ月同じ村に滞在してひたすら同じ料理を食べ続ける話が書かれていて、示唆的でした。村人たちにとってはそれが当たり前だし、そもそも他のものがないのですけれど、椎名誠は、そのあまりの退屈さに悶絶する。

リミックスの可能性

蘆田:

ふと思ったんですが、衣食住とひとくくりにされますが、毎日同じ家に住むことに飽きるってあんまり聞かないですよね。遊牧民からすると、「ずっと同じところ住むのって飽きない?」って思われそうですが。同じものだと満足できないというのは、僕たちの固定観念なのかも。

三浦:

引っ越しがライフワークみたいなひともいますけれど、たしかに、ふつうはそうですね。最初から期待しなければ平気なのかも。コロナウィルスの感染拡大によって、実際、ずっと家に籠もって暮らすような状況がありますが、ひとがどれだけ同じ空間で耐えられるか、移動に関する省エネの実験のような様相を呈していて興味深いです。

このコロナ状況のあと、すべてが遠隔のモニター上の疑似体験に置き換えられ、それが省エネへの要請と一体化する。そんな時代が来るのかもしれません。『LAフード・ダイアリー』で書いたLAは、フリーウェイの上に作られた人工都市で移民たちの異質な食文化がばちばち接触しあって異種混交が繰り返される、という場所でした。これはエネルギー浪費の許された20世紀文化の最後の徒花というかんじもしてきます。斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』を読みましたが、エネルギー問題の要請から、近い将来、食材の空輸はきびしく制限せざるをえなくなるだろうと書かれていました。

蘆田:

三浦さんは、空輸がなくても食を楽しめそうですか?

三浦:

空輸なしだと、たとえばLAフードシーンは変容を余儀なくされるでしょうね…。鮮魚の空輸なしでオーセンティックなスシレストランはありえないし、フレンチもイタリアンも東南アジア料理も、擬似的な食材でごまかすしかなくなる。ディープな異文化の混在する状況は維持しがたくなると思います。

僕自身は、航空便で届く高級食材はそんなに食べていないですが、でも、海外の新鮮食材にふれるチャンスが減ること自体は悲しいことですよね。ではどうするか。具体的には、家庭菜園みたいなところになるんじゃないかな。たとえば、メキシコ料理の本を読んで、その食材の種だけをなんとか入手して、自分の庭で栽培して、キッチンで再現する、とか。エネルギー消費を許容できる範囲に収めつつ、しかし、リミックスと変身の可能性を確保する。食文化におけるリミックスの可能性自体はぜんぜん尽きていないと思うんです。じゅうぶんに知られていない伝統料理の技術とか食材は世界に山ほどあるはずですから。

蘆田:

ファッションでも、リミックスは新しさを産むためにこれからもずっとあり続けるでしょう。ファッションの場合、食と違って難しいのが文化の盗用への批判もありますね。アメリカのファッション誌で、白人モデルが着物を着て撮影したら炎上したこともありました。

食だとおそらくそんなことはなくて、白人がメキシコ料理を食べても炎上しませんよね。

三浦:

食における文化盗用の問題については、デイヴィッド・チャンがホスト役を務めるNetflixの番組『アグリー・デリシャス』などではかなり突っ込んで議論されていて、印象的でした。フライドチキンが黒人たちにとって持つ多重の意味だとか、韓国系移民にとってのキムチの意味とかですね。自由自在に使えるパレットの色の一つ、などではなくて、マイノリティの矜持に関わるデリケートな歴史があります。そこへのリスペクトのない盗用は、やっぱり批判されると思います。自身、韓国系のデイヴィッド・チャンは、昨今のキムチのお洒落な使用が許せない!と息巻いていました。ただ、蘆田さんの言う通り、食の場合には衣服よりも楽天的なところがあるかもしれないですね。キムチを食べてみて、おいしい、と言えば、基本的にそれは友好的な身ぶりだとみなされますから。お前に何がわかるんじゃ!と言ってくるひとはいるかもしれないけれど、キムチが食べ手の変身を促すことだってありうると思います。

画像: 家庭菜園でトマティーヨの苗を育てるも、枯らしてしまう
家庭菜園でトマティーヨの苗を育てるも、枯らしてしまう

物の手応えを取り戻す

蘆田:

食とファッションの違いで、ずっと気になっていたことがもうひとつあります。昭和のある時期までは、多くの母親が自分や子どものために服を作っていました。料理も同じように、みんな家庭で作っていましたよね。けれども、ある時期から服だけ家で作らなくなった。このことに関して、誰も罪悪感を持っていない。でも、自分の家でご飯を作らずに外食ばかりしていると罪悪感を抱きがちですよね。

三浦:

書店で売れている料理本の結構な割合が、「料理が苦痛」みたいな罪悪感をテーマとした本なんですよね。

蘆田:

保育園で子どものものを自作しないといけないというのはあるけれど、でも決して手縫いは要求されないんですよね。そして、ミシンを使うことは許されるけど、外注することは許されなかったりする。その線引きがかなり謎です。

三浦:

あの保育園文化も最初、びっくりしますよね。アメリカのような合理性第一の国だと絶対にありえない。保育園におけるミシン仕事の要求にはジェンダーバイアスがかかっていて、若い母親を教育しよう、というようなことですよね。子どもの服を作ると、服についての知識は増えるかもしれませんが、誰もが時間に追われるこの現代社会で、ずいぶん荒療治ですよね。家庭料理の分野では、「一汁一菜」と言って、とにかくご飯と味噌汁だけでも親が手作りすべきだ、という主張で書かれた土井善晴さんの本が大ベストセラーになりました。手作りが続けられるぎりぎりの一線として、自然素材だけを用いた一汁一菜の型を死守せよ、というわけですが、とても示唆的で現代的な入門書だと思います。

僕も基本的に手料理はよいものだと思っています。物の手応えがどんどん失われていくこの世界の趨勢の中で、料理の果たすことのできる役割はとても大きくなっているとも思います。ただ、これも繰り返しになりますが、「手料理」対「既製品」というように対立思考で捉えたとたん、いろいろな「罪悪感」もセットで生まれるし、「料理が苦痛」という負の感情が蓄積していくことになりかねません。ファストフードを害悪とみなす必要はないし、良い混在がいかに可能かを考えるべきではないでしょうか。

#Sustainability
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