2021.08.18

【リレーコラム】服と記憶(梅田拓也)

#リレーコラム:Fashion / Technology
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PROFILE|プロフィール
梅田 拓也
梅田 拓也

同志社女子大学学芸学部メディア創造学科助教。独立系学術雑誌『メディウム』編集。専門はメディア理論。共著に『ポストメデイア・セオリーズ』(ミネルヴァ書房、2021年)。

私には朝、クローゼットを全開にしてその日に着る服を選び、汗を吸って汚れた寝間着を無造作に放り投げて着替え、そのまま家を出るという悪い癖がある。実家暮らしが長かったため、放っておいても母が片付けて洗濯してくれるという甘えが身体に染み付いているのである。

そんな私も大学院への進学を機に、実家を離れ東京で一人暮らしを始めた。下宿を始めて間もない頃、何らかの用事で母に電話をする機会があった。その際に母から、私が実家を発った日に掃除のために部屋に入ったところ、いつものようにクローゼットが全開で寝間着は散乱していたと、笑い混じりに苦情を言われた。母は、そのあまりにも普段どおりの光景を見て、これを片付けておけば、夜になれば私が帰ってくるんじゃないかと思ったと言っていた。その言い方がなぜか印象的で、あれから6年たった今も克明に覚えている。

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脱ぎ捨てられた服には、そこに誰かがいたという記憶が宿る。2019年に乃木坂の国立新美術館で開かれていたクリスチャン・ボルタンスキーの回顧展「クリスチャン・ボルタンスキー――Lifetime」に展示されていた、《ボタ山》という作品を見たときにもそう思った(1)。ボルタンスキーは、古着や写真といったどこにでもあるようなものを使って、記憶をテーマにした作品を作ってきたアーティストである(2)。《ボタ山》は、炭鉱跡にある捨て石の山のように、黒い服をうず高く積み上げたコンセプチュアル・アートだ。無造作に積み上げられた黒衣は、歴史的記録に残されずに死んでいった人々を暗示する。 

だが、この作品で注目すべきなのは、ボルタンスキーが積み上げた黒衣は、ほとんど同じ形と色をしており、それを誰かが着ていたという形跡が感じられないし、徹底的に匿名性が保たれているということだ(3)。これを踏まえると、《ボタ山》が表現していたのは、そのような死者たちそのものではなく、それを見る私たち生者の目線だと言えるのではないだろうか。今日も世界中で沢山の人々が死んでいる。だが私たちは、死者一人一人の痛みを視界から取り除き、その死者が喪われたことを悼む人々に目をつむり、漠然とした事象として片付けている。そう思うとこの作品は、死者を徹底的に不在のものとして捉える、私たちの冒涜的な態度を映し出していたと言えるかもしれない。

そのボルタンスキーもこの夏、来世へと旅立った。だが、その訃報を聞いた時、彼の痛みも、彼への悼みも、私にはどこか遠い世界のものであるかのように響いていた。黒い服がまた一枚脱ぎ捨てられた音だった。  

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ボルタンスキーの回顧展が開かれていた頃、そのすぐ近くにある六本木の森美術館では塩田千春の回顧展「塩田千春展:魂がふるえる」が開かれていた(4)。私は、ボルタンスキーの回顧展に行った数日後、塩田の回顧展にも訪れた。展示空間いっぱいに糸を張り巡らせて作ったインスタレーション《不確かな旅》や《静けさの中で》が人気だったらしく、多くの人がその中で記念撮影に興じていた。  

だが、私の目に止まったのは、塩田が2001年の横浜トリエンナーレで発表した《皮膚からの記憶》というインスタレーションの記録だった(5)。泥まみれの巨大なドレスが吊るされ、その上からシャワーのようなもので水がかけられているという作品だ。実際にこの作品を見ることはできなかったが、記録だけでも異様な雰囲気を放っていたことを覚えている。 

汚れた服には、それを着ていた誰かの記憶が宿る。普段あまり気にしないようにしているが、人間の皮膚からは汗や脂や垢や血液や細菌がこぼれ続けていて、それが服の裏側にべったりとついている。あるいは、その人が活動した場所で泥や埃や飛沫などを浴び続けていて、それが服の表面にべったりとついている。だから、服はそれを着用していた人にしか生み出せない汚れを纏っている。塩田は次のように言う。「私にとって衣服は、まさに第二の皮膚のようなものです。(中略)ドレスは身体の不在を表し、洗っても皮膚の記憶は洗い落とすことはできません。」(6)――つまり、塩田がドレスから洗い出そうとしていたのは、もうそこには居なくなったはずの人の身体が、無意識のうちに残してしまった物質的な痕跡だったのだ(7)。  

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「服と記憶」という同一の主題に対する、ボルタンスキーと塩田の向き合い方の違いはとても興味深い。ボルタンスキーの《ボタ山》が脱ぎ捨てられた大量の服に匿名の誰かが消え去った痕跡を見たのに対し、塩田の《皮膚からの記憶》は服にこびりついた垢や汗や泥に特定の誰かがそこにいた痕跡を見ていた。つまり、ボルタンスキーが服によって存在したはずの人々の不在を表現したのに対し、塩田は服によって不在のはずの人々の存在を表現したのである。いずれにせよこの両者が照準を合わせていたのは、服というメディウムの物質性と、私たちがそれを通して誰かの存在と不在をいかに捉えているのか問い立てであったように思う。  

 服に興味を持つ人というのは、普通は、服の色や素材や形やブランドをみて、それがどう美しいのかとか、それらをどういうふうに組み合わせようか、みたいなことに関心を持つのだと思う。特に近年、ECやSNSが発達した結果、購入するまで現物に全く触れることなく服を手にしたり、誰かの着ている服を画像や映像のみで楽しんだりするような消費のあり方が人気を持っている。だが、この2つのアートは、そういった服の接し方とは少し異なる角度から、服と私たちの関係を明らかにしてくれる。物質としての衣服、あるいは脱ぎ捨てられた服や服にこびりついた汚物は、そこにかつて誰かが存在しそして今はもう存在しないという、事実の重みを突きつけてくる。古着屋で誰かが着ていたデニムを握ったとき、亡くなった親族の納戸にあったアウターを折りたたんだ時、私たちはその独特の重みを確かに感じ取っている。

私が実家を発った日の朝、寝汗を吸って悪臭を放っていた寝間着を拾い上げた母も、きっと私の存在と不在の重みを感じ取っていたのだと思う。だから、あの時母からかかってきた電話は、私がいなくて寂しいという意味だったんだろうと、今さら思った。

(1)「クリスチャン・ボルタンスキー――Lifetime」展および、出展作品の《ボタ山》については、新国立美術館・国立国際美術館・長崎県美術館編『クリスチャン・ボルタンスキー――Lifetime』(水声社,2019年)の他、国立新美術館の公式HP(2021年8月3日閲覧)や『美術手帖』の記事を参照(2021年8月3日閲覧)。
 
(2) 湯沢英彦『クリスチャン・ボルタンスキー――死者のモニュメント』(水声社,2004年)を参照。湯沢は、ボルタンスキーの作品群の中で持続し変化し続ける主題を、「死者のモニュメント」という語でまとめている。「死者のモニュメント――。またそれは、喪われたものの記憶を共有する場所であり、それによってわたしたち生きているものが、共に在ることを確認する場所であるだろう。ボルタンスキーにおける記憶の主題は、喪われたものを媒介に私たちが繋がりあい、共に在ることの可能性を、改めて問いかけてくる。」(同書13頁)
 
(3) このようなボルタンスキーの服の扱いは、古着を使った彼の他の作品の中にも現れている。例えば、「Lifetime」展にも出展されていたナチスの強制収容所から題名をとったインスタレーション《カナダ》(1988年)や、《保存――死者の湖》(1990年)、《ペルソンヌ》(2010年)などはその典型だろう。それらの作品で使われている服はどれも誰かが着ていたことを感じさせないものであり、湯沢の表現を借りれば「交換可能な衣服の集積」なのである(前掲書,204頁)。ボルタンスキーはこのようにすることで、匿名の人間の大量死という歴史的事実の陰惨さとそれをユーモラスに扱う軽やかさを共在させ、死を記憶し続けることの困難さを提示しているのである。《ボタ山》も、このような主題を引き継いだものとして捉えられる。ただし1点だけ強調できる点があるとすれば、《ボタ山》に積み重ねられていた衣服は全て黒でまとめられ、匿名性が徹底されているということである。この点に目を向けるとき、私たちはこの作品から、死者とそれを悼む心よりも、生者がそれを忘却し冒涜する様を感じざるをえない。
 
(4)「塩田千春――魂がふるえる」展については、展覧会公式図録である森美術館編『塩田千春――魂がふるえる』(美術出版社,2019年)の他、森美術館の公式HPを参照(2021年8月3日閲覧)
 
(5) 《皮膚からの記憶》については、武蔵野美術大学で制作されたHP「Culture Power」に掲載された、岡部あおみとの対談も参照(2021年8月3日閲覧)
 
(6) 塩田千春と芸術史家のアンドレア・ヤーン(現ザールラント文化財団の代表)の対話の中での、塩田自身の発言。この発言の前後で塩田は、1997年に行った泥にまみれ続けるパフォーマンス《トライ・アンド・ゴー・ホーム》や、1999年に発表したドレスと泥と水を使ったインスタレーション《アフター・ザット》で、この感覚を表現しようとしたと述懐している。この「ドレス=第二の皮膚」という主題は、ここで取り上げた《皮膚からの記憶》だけでなく、《記憶の迷宮》(2012)や《セブン・ドレス》(2015)、そして注7で紹介する《時空の反射》(2018)といった作品にも継承されている。森美術館編『塩田千春――魂がふるえる』(美術出版社,2019年)の213頁を参照。
 
(7) 「塩田千春――魂がふるえる」展にはもう1つドレスを使った作品が実際に展示されていた。それは2018年に制作された《時空の反射》と題されたコンセプチュアルアートで、直方体の鉄製の巨大なフレームの中に白いドレスと両面鏡を閉じ込め、その内を黒い糸でびっしりと覆った作品である。両面鏡にドレスが写りこみ黒い糸が視界を遮ることで、鑑賞者はこの構造体の中にあるドレスが実物なのか鏡像なのかわからなくなってしまう。展示会図録に掲載されたキュレーターの片岡真実の解説には次のように書かれている。「ここでは第二の皮膚としてのドレスそのものが、現実と虚像という両義性を生み出し、作品の意味を複層化している」(前掲書,11頁)。つまり、この作品は服=人間の物質的痕跡が、自己/他者や現実/虚構や意味/物質といった差異の曖昧な揺らぎの中にあることを表現しているのである。

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