

陶芸家
石油コンビナートが広がる四日市。海沿いにある産業道路から西へ丘陵地を登っていくと、立ち並ぶ工場群の向こう側に伊勢湾が見え始めた。醉月陶苑がある辺りはかつては別荘地だったそうで、沿岸部が工業地帯として埋め立てられる前の、風光明媚な四日市の残り香が漂う。
醉月陶苑が始まったのは明治33年。明治2年生まれの初代・醉月、鋼三郎が興し、当代の洋さんで3代目になる。初代は焼き物を始める前は、地元の郵便局長を務めていたそうだ。
「江戸時代、家は桑名藩の代官をやっとった」
通された陶苑の庭を抜けた奥の作業場で、土をこねる3代目との会話が始まった。
「僕は(祖父に)会ったことはないけど、親父(2代目・醉月)に言わすと酒が大好きで身上を潰したと言っとった。内職という形で始まったんかな。僕もお酒、よういただくんですわ(笑)。俳句もやっとったもんで、その号が醉月でした」
初代・醉月の焼き物は「型萬古」。木型を用いて急須などを作った。型萬古とは、沼波弄山以降、絶えていた萬古焼を再興した森有節・千秋兄弟が生み出した技法である。しかし時代と共に型萬古は衰退していき、ロクロでの成形が中心になった。醉月陶苑も、2代目からはロクロを用いている。
「親父は初めから100パーセント急須。焼き物の職人は、今でこそ先生と呼ばれる環境があるんだけど、その頃は作家とも何とも言われん。ただの職人というか、それが生活の糧やったね。作家活動もないし、魅力も僕ら感じなかった。そういう時代やった」
