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宮平 一夫
中央大学法学部を卒業後、東京での会社員生活を経て37 歳で首里織の道へ転じた。妻・ 早苗と共に工房を立ち上げ、独自の観察眼と探究心で高度な織技術を独学同然で体得。日本民藝館展奨励賞をはじめ、夫婦で数々の入選を重ねてきた。
現在は妻・息子と共に後進の育成にも取り組みながら、首里織の歴史と奥深さを体現する存在として、その手で品質を静かに支え続けている。
宮平 晋甫
前職では物流・移転事業の現場総括責任者として多岐にわたる業務を束ね、工程の透明性と責任ある仕事の原則を身体に刻んだ。その原則は、家業の織物工房でもそのまま貫かれている。先代から受け継いだ技に敬意を払いながらも、納得のいかない箇所は迷わず解いて織り直す。ごまかしのない手仕事こそが、布に宿る信頼だと信じるからだ。
現在はデザイナーや異業種との共同開発にも積極的に取り組み、伝統技法の新たな 可能性を切り拓く。同時に、創業者世代の技術と精神を次世代へ継承すべく、誰か一人に依存しない、チームで挑戦し成長できる組織づくりにも力を注ぐ。目指すのは、百年先にも布を織り続けられる工房の姿である。
沖縄の織物の歴史を紐解くには、14世紀から15世紀、日本で言えば鎌倉時代から室町時代にかけての「大交易時代」まで遡る必要がある。当時、沖縄本島は北山、中山、南山の3つの勢力に分かれており、それぞれにおいて有力な武将たちが東南アジアや中国、日本本土と活発な貿易を行っていた。
この交易の過程で、インドから東南アジアへ伝わっていた「絣(かすり)」の技術が沖縄へともたらされる。船乗りたちは風待ちのために数ヶ月間現地に滞在するなかで、現地の織物技術や道具を持ち帰り、沖縄の人々に伝えたのである。
三山はその後、中山によって統一され、中山は尚家として首里城に王府を定めた。 その後、首里王府は中国と正式な交易を始め、中国からは珍しい花織や花倉織、道屯織な どの中国紋織物が、南方諸国からは絣や南方花織の技術が導入され、首里織の基礎が築か れた。
やがて、首里王府は服飾制度や身分制度を設け、交易を通じて導入された技術や意匠を体系化していった。中国伝来の技術 や、鮮やかな色柄の絣は王族、士族階級に限定され「王府のもの」とし、平民(百姓)の着用を認めないこととした。
王府の服飾制度のもとで発展したこれらの織物は、1972年の沖縄の本土復帰に伴い、「首里織」として命名された。
首里織には、花倉織(はなくらおり)、道屯織(どうとんおり)、手縞(てじま)など複数の技法が含まれる。これらの名称や技法は、首里織の歴史とともに受け継がれ、その価値と品質が大切に守られている。
