

陶芸家
「父が80歳で亡くなったときには、私はもう50歳になっていましたから、(7代目を)継ぐということに悩んだり考えたりということは、おかげさまでなかったんです」
国の登録有形文化財に指定された主屋。近年、内部をカフェに改築した屋内は、歴史を重ねた古材の黒さが落ち着く。土間から上がった畳敷の和室で、立志さんは犬山焼の歴史と、自身のこれまでを話してくれた。
犬山焼の起源は江戸時代に遡る。諸説あるが元禄または安永年間に、美濃を離れた陶工たちを、犬山・今井宮ヶ洞の庄屋である奥村傳三郎が面倒を見始めたことに由来する。作られた器に「犬山」の窯印を押したことが犬山焼の始まりだ。
「今井窯は奥村家が元気なうちは続いたんですが、3代目が亡くなった後は、奥村家の家運が傾きまして、陶工たちの面倒を見られなくなり今井窯は存続が不可能に。陶工たちは帰農していくんです。そうなると、今度は殿様がそれを惜しんだわけです」
文化7(1810)年、当時の7代目犬山城主・成瀬正壽は、城下の商人・島屋宗九郎に命じて城の東にある丸山に再び窯を開かせた。ただし、商いとしてはかんばしくなかったようだ。
窯は島屋家から、その後同じく商人の大島太兵衛へ引き継がれ、大島家は志段味(現在の名古屋市守山区)から陶工の加藤清蔵を招き技術面のテコ入れを図った。その時に犬山焼は技術的には進んだものの、商売として安定するまでには至らず、結局丸山窯は閉じられることになった。
「大島家が事業を手放すと、今度はいよいよ殿様が自分でお金を出すと言い出すんです。大島家の陶工だった加藤清蔵を窯主に据え、この時に赤絵や雲錦手を描く職人も犬山に呼びました」
