丸尾焼に受け継がれる天草の土──地域とともに生きる窯元の姿
2025.10.30
丸尾焼に受け継がれる天草の土──地域とともに生きる窯元の姿
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熊本・天草にある窯元「丸尾焼」。その始まりは江戸末期、農閑期の副業として水瓶や土管が作られたことに遡る。以来、時代の変化に合わせて姿を変えながら、現在は地域に開かれた工房として活動を続けている。やきものという生業を核にし、交流の場としての役割を持つ丸尾焼。丸尾焼の未来を見据えながら、地域とともに歩み続けるその姿を追った。
PROFILE|プロフィール
左から:金澤 宏紀(かなざわ ひろき)、金沢 弥和(かなざわ みわ)、金澤 佑哉(かなざわ ゆうや)
左から:金澤 宏紀(かなざわ ひろき)、金沢 弥和(かなざわ みわ)、金澤 佑哉(かなざわ ゆうや)

クラフト・ワン株式会社 【 丸尾焼 】

江戸から続く歴史と大きな転換点

丸尾焼の創業は1845年(弘化2年)。農閑期に副業として水瓶や土管を作り始めたのが起源である。3代目の頃には農業と並行してやきものづくりを続けながら、簡易な鍋も手がけたという。

その後3代目金澤武雄は農商務省工業試験所の研究に従事し、昭和12年より益子焼に赴任し、栃木県窯業指導所を立ち上げ、益子焼の製陶会社の設立に尽力する 終戦と共に天草に戻り、自家の製陶業に専念する。

「丸尾焼は、創業から、土管や甕(かめ)のように生活に直結した器を作っていました。 時代と共に需要がなくなり、3代目は益子焼で培った民陶の流れをもとに、生活のための陶器づくりへと転じたんです。時代によって作る形は変わっていきますが、根底にある“暮らしの中の器づくり”という思いは変わりませんね」

1980年代、5代目が自ら作陶に取り組み、それまでの「職人を雇う窯元」から「当主自ら作る窯元」へと変わる。

「5代目を継承した金澤一弘は、すべて手作りによる分業制の窯元を目指しました。器の形、企画を通して、成形・絵付け・窯詰めと分業でした。時代の流れに沿うことも必要なことだが、丸尾焼として“何を残し、何をすべきか”という課題は、受け継ぐ者として山積みですね(笑)」