株式会社松井機業 代表取締役
1984年富山県生まれ。約450年以上続く城端絹を県内で唯一生産する「松井機業」の六代目。
東京の大学卒業後、東京の証券会社に勤務。
上京した父親と外注先を訪問したことがきっかけで絹に興味を持ち、家業を継ぐことを決意。
2010年に帰郷して入社。
2014年に初の自社ブランド「JOHANAS」(ヨハナス)を立ち上げ、2016年から養蚕もスタートさせるなど、家業の新たな未来を切り拓いている。
撮影:鷲尾 和彦
松井機業の歴史は、初代・松井文次郎さんがこの地に機を据えたことから始まる。各代が時代の変化に対応しながら、その襷をつないできた。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。絹の需要が激減し、多くの機屋が廃業していく苦しい時代もあった。それでも松井機業が「機の音を絶やさない」という信念を貫いてこられたのは、なぜか。6代目の紀子さんは、その原動力を「危機感」という言葉で表現する。
「織機が止まるということは、職人の技術も、文化も、町の誇りも止まるということ。絹が売れなくなったからといって、すぐにやめてしまえば、私たちが何百年も紡いできたものはそこで終わってしまいます。その危機感が強かった」
その強い想いがあったからこそ、壁紙としての「しけ絹紙」やインテリア素材といった新たな用途を開拓し、機の音を次代へと響かせ続けることができたのだ。
意外にも紀子さんは当初、家業である絹織物業に「衰退産業」「おばちゃんくさいもの」といったマイナスな印象を抱いていたという。その心が180度変わったのは、2009年の秋。父親に同行した訪問先でのことだった。父が相手先の社長と突如として始めた「お蚕談義」。そこで語られたのは、彼女が今まで知らなかった絹の奥深い世界だった。
蚕は「1頭、2頭」と敬意を込めて数えられること。その糸のアミノ酸組成は人肌に極めて近く、体内で溶ける手術糸にもなること。汗や尿の臭い成分を吸着し、優れた調湿機能まで持つこと——。
衰退産業どころではない、無限の可能性を秘めた素材であると知った瞬間、「目の前がキラキラとして、はじめて携わりたいと思いました」と紀子さんは振り返る。
その熱意はすぐに行動へと移る。帰省した正月に、父へ「戻ってきたい」と想いを伝えたのだ。自らの意志で見出した絹の可能性を胸に、彼女の挑戦が始まった。