盛岡における鉄器製造の始まりは、江戸時代初期の17世紀に遡ります。そのきっかけは、当時この地を治めていた南部藩の藩主が、茶の湯文化に深い関心を寄せていたことでした。
藩主は京都から茶の湯釜を作る専門の職人である釜師、小泉仁左衛門を召し抱え、藩の手厚い庇護の下で質の高い茶の湯釜を作らせたのです。
こうして生み出された茶の湯釜は、藩から幕府や他の大名への贈答品、あるいは献上品として用いられました。
そのため、盛岡で発展した鉄器は、実用的な道具という側面よりも、大名や茶人が用いるための洗練された美術工芸品としての性格を強く帯びていくことになります。藩が鋳物師を手厚く保護し、その技術と思想が尊重された環境が、芸術性の高いものづくりを育んだのです。
一方、南部鉄器のもう一つの源流である奥州市水沢の鋳物には、盛岡よりもさらに古い歴史が存在します。その起源は平安時代後期、およそ950年前にまで遡るとされています。
当時、東北地方に一大文化圏を築いた奥州藤原氏が、近江国(現在の滋賀県)から優れた鋳物師を招いたのが始まりです。
彼らは、世界遺産である中尊寺金色堂に代表される平泉文化の隆盛を支えるため、仏具や梵鐘などを製造しました。それと同時に、人々の暮らしに不可欠な鍋や釜といった日用品も手がけていたのです。
奥州藤原氏が滅亡した後、この地の鋳物産業は一時的に衰退しますが、技術そのものは地域に深く根付きました。そして、権力者のための美術品ではなく、主に民衆の生活に寄り添う実用的な道具を作るという伝統が、水沢の地で確立されていきました。
