土佐打刃物の技術的な起源は、鎌倉時代後期にまで遡ることができます。1306年(徳治元年)、大和国、現在の奈良県から刀鍛冶(かたなかじ)である五郎左衛門吉光の一派が土佐国、現在の高知県に移住したことが、その始まりとされています。戦乱の時代において、彼らは武具や刀剣を製作し、この地に高度な鍛冶技術の礎を築きました。
その後、産地として本格的な産業基盤が形成されたのは、戦国時代から安土桃山時代にかけてのことです。1590年(天正18年)に土佐を統一した長宗我部元親が実施した検地、「長宗我部地検帳」には、領内に399軒もの鍛冶屋が存在したという記録が残されています。この事実は、江戸時代を迎える以前から、すでに鍛冶が1つの大きな産業として確立していたことを示しています。
さらに、長宗我部元親は豊臣秀吉の小田原攻めに従軍した際、佐渡から熟練の刀鍛冶を連れ帰ったと伝わっており、これが産地の技術革新を促す一因になったと考えられます。
この時期の製品は、まだ武具や刀剣が中心であり、庶民の生活道具というよりは、戦いのための道具としての性格が強いものでした。
土佐打刃物が武具から生活の道具へとその主軸を移し、飛躍的な発展を遂げる直接的なきっかけは、江戸時代初期の藩政改革にありました。1621年(元和7年)、土佐藩は深刻な財政難を克服するため、「元和改革」と呼ばれる大規模な改革に着手します。この改革を強力に主導したのが、土佐藩の家老であった野中兼山です。
野中兼山の政策は、新田開発による米の増産と、県の面積の大部分を占める森林資源の積極的な活用を2本の柱としていました。この藩を挙げた大規模な開発事業は、農作業に使う鍬(くわ)や鎌、そして林業に不可欠な斧(おの)や鉈(なた)といった刃物の需要を、それまでとは比較にならない規模で増大させました。
この爆発的な需要の発生が、土佐の鍛冶職人たちに大きな好機をもたらします。彼らは藩内の旺盛な需要に応えるため、互いに技術を競い合い、生産量と品質を劇的に向上させていきました。この時期の技術的な研鑽こそが、現代にまで続く土佐打刃物の産業としての礎を築いたと言えます。藩の政策というトップダウンのアプローチが、結果的に職人たちの技術革新を促し、1つの地域に需要と職人を集中させる「産業クラスター」を形成したのです。