大島紬を支える泥染め:奄美大島の泥が生み出す「生きた黒」
2025.11.06
大島紬を支える泥染め:奄美大島の泥が生み出す「生きた黒」
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奄美大島の強い日差し、澄んだ水、そして鉄分を含む大地。その自然と向き合いながら生まれる「泥染め」は、1300年もの歴史を受け継ぐ大島紬の要である。車輪梅(しゃりんばい)と鉄分を含む泥が織りなす黒は、合成染料では出せない深みを放つ。
しかし今、この技術は存続の危機に直面している。この技を家族で受け継ぐ工房・肥後染色に話を伺い、伝統と現代、そして未来への挑戦を探った。
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肥後 英機(ひご ひでき)
肥後 英機(ひご ひでき)

伝統工芸士(経済産業大臣指定伝統的工芸品 本場大島紬 染色部門)

昭和48年、龍郷町戸口にて弟の純一と共に肥後染色を創業。以前は大島紬の製造を行い、加工職人としても働いていた。肥後染色立ち上げから泥染め一本に絞り込み、現在に至る。色にこだわり、妥協を許さない頑固な職人。

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肥後 純一(ひご じゅんいち)
肥後 純一(ひご じゅんいち)

昭和40年ごろに有屋の泥染め工場で見習いとして泥染めに触れる。本場奄美大島紬のコンテストにて、染め部門で数々の賞を受ける。大島紬以外にも、各種アパレルの染め依頼もこなし、泥染めのモデルとしても活躍する泥染めのパイオニア。

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山元 隆広(やまもと たかひろ)
山元 隆広(やまもと たかひろ)

島に戻り英機氏の娘と結婚後、肥後染色の職人見習いとして働き始める。2015年に泥染めをモチーフにした衣類のブランド「Teba Brown(テバブラウン)」を立ち上げる。

奄美大島の自然と共に── 泥染めの原点

奄美大島の豊かな自然があって初めて成立する染色技法が「泥染め」だ。1300年もの歴史を誇る大島紬に欠かせない工程であり、車輪梅を煮出して得られるタンニンと、鉄分を含む泥との化学反応によって、独特の黒が生み出される。

泥染めには、奄美大島の歴史が色濃く刻まれている。江戸時代、薩摩藩の支配下に置かれた奄美の人々は、サトウキビの栽培を強いられ、絹織物は年貢として献上を命じられた。貴重な大島紬を守るため、島民が田んぼや沼地に布を隠したところ、鉄分を含む泥と反応して布が黒く染まったという伝承が残る。

これが「泥染め」の起源とされ、偶然から生まれた技がやがて奄美を代表する文化へと育っていった。最盛期の昭和49年には年間30万反を生産した大島紬だが、現在は8千反ほどにまで減少しており、その歴史をつなぐことの難しさも浮き彫りになっている。

「一度の染めで終わりじゃないんです。何十回と繰り返してようやくあの深みが出る。職人の手で揉み込みながら、色の濃さを確かめるんです」。英機さんは、釜を見つめながら静かに語ってくれた。