沖縄独自の文化として、大切に受け継がれてきた紅型
まず、御社について教えてください。
当工房は、1972年に私の祖父が創業しました。大本は、琉球王朝士族のために紅型を作っていた三宗家のひとつ“下儀保村知念家(しむじぶむらちねんけ)”です。
私が当工房で本格的に仕事をするようになったのは、今から15年ほど前。21歳の頃でした。入社するまでは大阪でグラフィックデザインの仕事をしていて、「30歳頃に沖縄に戻って家業を継ぐのかな」と漠然と思っていました。
しかし、祖父の急逝を機に継ぐことになり、想像していたよりも早く戻ってきたんです。そのため、工房での仕事も、経営も並行して学んできました。
沖縄ではなぜ紅型が発展したのでしょうか。
紅型が発展した背景には、いろいろな事柄が関係していたようです。
もともと、紅型は琉球王朝の王族が着るものや交易品として作られていました。それを絶やさないようにするために、また他国に対して自国の文化をアピールできるようにするために、技術を発展させてきたようです。
絹織物に関しては、中国から日本を北上するルートのひとつに沖縄が入っていたことから根付いたと聞いています。
紅型は作業工程が非常に多いのですが、すべて手仕事で行われているのが特徴です。伝統工芸として沖縄で長く守られてきたのは、手仕事だからこそ表現できるものを求めてくださるお客様がいたからです。
近年はAIや3Dプリンターなどの技術が発展してきていますが、“紅型のような伝統的な技術も存在し続けてほしい”という思いを込めて、私たちはものづくりをしています。
御社が手掛ける紅型の特徴を教えてください。
当工房では、表現の幅を広げるためにさまざまな挑戦をしています。具体的には、いろいろな業種の方とコラボレーションをしたり、デジタル技術を積極的に取り入れたり。紅型業界では、珍しい取り組みかもしれません。
過去には、有田焼や沖縄のやちむん(焼き物)とコラボレーションをしました。紅型や工芸にあまり触れたことがない方にも興味を持ってもらえるような商品を作って、アプローチできるようにしているんです。
当工房の商品を見て、「やっぱり知念さんの商品なんだね」と言ってもらえるようになってきたので、こうした取り組みが実を結んでいるなと感じています。