120年の歴史を誇る「深川硝子工芸」で、技術を磨く職人たち
2023.12.22
120年の歴史を誇る「深川硝子工芸」で、技術を磨く職人たち
家庭や飲食店など、さまざまな場所で使用されているガラス食器。日常の中で当たり前のように使っていても、それらが製造された背景を考えたことがある人は少ないのではないだろうか。
ガラス製品を作るには多様な方法がある。北海道小樽市にある「深川硝子工芸」では、その中でも「吹きガラス」という伝統的な技術を用いて製品作りを行っている。
今回は、同社で6代目の代表取締役を務める出口健太さんにインタビューを実施。創業の経緯やこれまでの歩み、製造しているガラス製品などについて、話を伺った。
PROFILE|プロフィール
出口 健太(でぐち けんた)
出口 健太(でぐち けんた)

1990年9月 東京都江東区生まれ
2003年 小学校卒業と同時に栃木県那須高原にある全寮制の学校に入学。中高6年間を過ごす。
2009年 大学進学のため東京の実家に戻る。
2013年 海外留学などの経験を経て、一度は飲食業界へ。
2015年 家業を継ぐため小樽に移住。
2018年 28歳のころ、5代目である父の体調が悪くなったことをきっかけに代表取締役に就任。
現在に至る。

深川で始まり、立て直しのために小樽へ

深川硝子工芸が創業した経緯と、現在に至るまでの歩みを教えてください。
当社が創業したのは、1906年。私の曾祖父の師である井田精が、東京の深川区(現・住吉周辺)に工場を作ったのが始まりです。当時は国からの委託で、塩や薬を貯蔵する瓶などを作っていました。

工場はだんだん大きくなっていったのですが、関東大震災ですべて壊れてしまって。復興はしたものの、瓶は機械でも作れるようになってきていたので、徐々に売れなくなってしまいました。

そのような背景もあり、当社は昭和中期頃から食器の製造にシフトしていきました。最初は業務用コップのような製品だけを作っていたのですが、価格が安いんです。そのため、もうちょっと特別感のあるグラスを作れるようになろうと考え、さまざまな技術を磨いていきました。

高級食器の製造は、平成まで続いていきました。ただ、2003年に東京の工場の老朽化問題が生じて。創業時は工場しかない地域だったのですが、その頃には周りに住宅が増えていたため、同じ場所で工場を建て直すのが難しくなってしまったのです。

そこで、小樽へ移転する話が出ました。きっかけは、昔から付き合いのあった小樽にある北一硝子の社長さんと私の父が話し合いをしたこと。当社が小樽に移転すれば、物理的な距離が近くなるためコミュニケーションが取りやすいですし、製品を輸送するのにも都合がいいということで、移転を決めたそうです。

移転したタイミングで、何か変化したことはありますか?
移転前は40名ほど社員がいましたが、半分ぐらいに縮小しましたね。

ですが、「せっかく工場を建て直すなら」と、父が設備を見直しました。今の工場は、地下タンクにある水を再利用したり、工場を稼働させる際に発生する熱を利用して、冬場の暖房機能として熱を循環させたりできるようになっています。SDGsという言葉が広まる前から、人や地球にやさしい未来を考えながら事業に取り組んできたのです。
現在は、どのような商品を作っているのでしょうか。
当社はOEM商品(自社ではなく、他社ブランドのものとして製造した商品)が多く、スーパーOEM工場だと思っています。ただ、安い量産品を作るような仕事はあまり受けないようにしていて。理由は、技術的に難しい商品を作る仕事の方が、市場としても生き残っていけると考えているからです。

また、生産しやすいものや利益の出やすいものなど、何かひとつの商品だけに絞ってしまうと、生産効率は上がっても、その商品が売れなくなってしまったときに会社として立ちゆかなくなってしまうんですよね。

そのため、当社は商品を絞らず、いろいろな色や形に対応させたものを作っています。ほかのガラス工場で断られた商品の製造依頼が、当社にくることもありますよ。

商品開発の人たちは製造の知識が乏しい方も多いため、依頼されたものを実際に作るとなると難しいことが多いのですが、当社では難しくても1回受け止めて考え、「こうすればできますよ」と提案まで持っていけるようにしています。

採算が取れず、業界としてもどんどん工場が減ってきているので、市場を存続させるにはできる限り時代の流れに合わせて、さまざまな形で柔軟に対応できるようにしていく必要があると思っています。
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