水害との闘いから始まった「かなものの町」燕三条
最初に「かなものの町」と呼ばれる燕三条について、その理由を教えてください。
昔、この辺りは水害がとても多い地域でした。水害が起こると農家はダメになってしまいます。この事態に対応するため農家の人々は、農業以外の仕事として釘をつくったんです。そこから鍛冶屋さんが始まっていったといわれています。
ここまでなら大阪での包丁や高知の鉈など他の産地と同じですが、燕三条には問屋さんが多かったのです。そのため東京や大阪で何が売れているかの情報が入ってきやすく、問屋さんからの要望に応えていくうちにいろいろなものをつくる鍛冶屋さんが増えていきました。
ここ当社も、林業関係の刃物、包丁とさまざまなものをつくっています。
工房の数は現在どのくらいあるのでしょう?
このエリアだと30いかないくらいでしょうか。昔はもっと多くの職人が活動していて、包丁屋さんだけでも薄いものだったり厚いものだったりと、それぞれ専門にしていた工房があったんです。
今は後継者不足で工房は減ってきていますね。
昔と違って、社会的に労働環境が変わってきていますし、汚れが多い業種でもあるので、新しい人が入ってこなくなったのが現状です。