伝統に挑みながら和傘文化を守り続ける「仐日和」
2024.07.19
伝統に挑みながら和傘文化を守り続ける「仐日和」
リンクをコピーしました
岐阜県岐阜市は、江戸時代から続く日本最大の和傘産地だ。美しいシルエットときめ細やかな装飾から「開いて花、閉じて竹」と謳われる岐阜和傘は、長きにわたり人々を魅了し続け、2022年3月には国の伝統的工芸品に指定された。
その技術と文化を守りながら、新しい挑戦を続けてきた和傘職人がいる。自身で和傘ブランド「仐日和(かさびより)」を立ち上げた河合幹子さんだ。
今回は、河合さんが和傘職人としての道を歩むに至ったきっかけやものづくりへのこだわり、そして岐阜和傘の課題や展望について話を伺った。
PROFILE|プロフィール
河合 幹子(かわい みきこ)
河合 幹子(かわい みきこ)

岐阜の和傘問屋の家系に生まれ、幼い頃から和傘の制作を身近に見て育つ。蛇の目傘、番傘、日傘の他、特注の和傘制作に取り組んでいる。

叔父からの連絡をきっかけに、慣れ親しんできた和傘の世界へ

河合さんが和傘職人の道を進まれるに至った経緯を教えてください。
母方の実家が和傘問屋を営んでいて、母も経理として働いていたので、私も小学生くらいまでは毎週土日や夏休みをそこで過ごしていました。

その頃は祖母も和傘職人として働いていて、祖母への憧れはずっとありました。母が事務作業をする部屋から祖母の作業スペースが見えたので、夏休みは毎日のように祖母が張りなどの作業をするところを見ていました。

また、たまに百貨店の催事に行って和傘作りを実演している場面を見たりして、大勢の人の前で和傘の作業を淡々とこなす祖母を見て、かっこいいなと思っていました。

でも中学生になり部活が始まるとお店に通うこともなくなってしまい、そのまま高校を出て大学に進学して、東京で和傘とは関係のない職種に就いたんです。

最初は広告代理店で、ホームセンターやドラッグストアなどの折り込みチラシを作っていました。ただ、印刷前は毎週仕事が終わるのが夜中の2時、3時になるので、「これはちょっと続けられない」と思ったんです。

それで岐阜に戻りました。私は簿記の資格を持っていたので、税理士事務所で会計の仕事に就きました。それから2〜3年後、27歳か28歳のときに、和傘屋を営んでいる叔父から「人手不足だから手伝ってくれないか」と声をかけられ、叔父の会社に入社したのが和傘の世界に入ったきっかけです。

幼少期から和傘が身近だったこともありますし、「力になれるのであればやりたい」という気持ちでしたね。
それからどのようにして和傘職人の道を進んでいったのですか?
叔父の会社に入って、最初は傘に傷がないかをチェックするところから始めて、少しずつできることを増やしていきました。叔父の会社は分業制なので各工程に職人さんがいるのですが、みなさんご高齢だったので、ゆくゆく作業できる人がいなくなって困らないように一通り自分で工程を把握しておこうと思いました。

和傘の作り方についてはつきっきりで教えてもらえるわけではなく、一度作業のやり方を見せてもらい、あとは実際に自分でやりながら覚えていく感じだったので、仕事のあとに練習時間を取るのは結構大変でした。

練習用の傘があるわけではないので、きれいにできたものは商品にして、ダメだったものは訳ありで売ったりもしました。私の場合は自分の作った傘が店頭で販売されるまでの期間が短く、半年から1年くらいだったと思います。

それは小さい頃から和傘屋に毎週通って職人さんに遊んでもらったり、いろいろな作業を見せてもらったりしていたので、なんとなく手つきを覚えていたんですよね。その経験が生きているというか、ベースになっていると思います。
1 / 3 ページ
この記事をシェアする
リンクをコピーしました