高度成長期の日本を、華やかに彩る
事業の始まりについて教えてください。
1952年に私の父、中矢栄吉が「中矢パイル織物工場」を創業しました。 当社のある和歌山県橋本市は、江戸時代から綿織物の産地として知られ、特に1877年(明治10年)に再織(さいおり)の製法が創案されたことで海外市場にも評価され、繁栄しました。1952年にはナイロン糸が登場し、筬返し(おさかえし)技術によるループパイル織物が椅子張り用の生地として採用されるようになります。そして1970年以降にジャガード機を導入し、「金華山織物(きんかざんおりもの)」の生産を開始しました。
高度成長期になると日本文化の欧米化がすすみ、畳の上に絨毯を敷いてスリッパを履くようになります。座椅子、壁張り、カーテンといった応接セットなどのインテリア需要に支えられ、当社は順調に事業を拡大しました。1988〜90年代前半は、自動車シート用布地として金華山織物が採用され、大量生産がピークに達しました。またトラック内装用品としても人気を博しました。1994年以降、差別化を図った新柄の開発により市場の支持を獲得し、特にはとバスのハト、都営バスのイチョウ、横浜の市営バスのベイブリッジなどのランドマーク柄は大ヒットしました。
金華山織りの魅力についてお聞かせください。
ジャガード機の織り方を工夫することで、さまざまな種類の布地を生み出せることが金華山織物の魅力です。2000年頃までは問屋に生地を納める仕事をメインにしていましたたが、それ以降は産地提案型事業に取り組み、自社製品を開発しています。昭和から平成に変わる少し前の1985年頃には、繊細な和柄が主流でしたが、 2006年頃より古代ヨーロッパのオールドコレクションに着想を得たデザインに転換するなど創意工夫することで、金華山織物独自の美しさを確立し、多くの支持を得てきました。