繊細な手技を未来へと繋ぐ「うちわの太田屋」
2024.08.19
繊細な手技を未来へと繋ぐ「うちわの太田屋」
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私たちの暮らしに寄り添い、小粋な夏の風物詩として今なお根強い人気を誇る「うちわ」。
明治時代に現在の千葉県の館山・南房総エリアで生産がはじまった「房州うちわ」は、京都の「京うちわ」、香川の「丸亀うちわ」とともに日本三大うちわのひとつとされる。
しなやかな女竹(めだけ)を用いており、持ち手の柄の部分が丸く、半円で格子模様の美しい「窓」が特徴的だ。2003年(平成15年)には千葉県で最初の経済産業大臣指定伝統的工芸品として認定されている。
150年以上にわたりうちわ作りの技術を守り続けているのが、千葉県南房総市にある「うちわの太田屋」だ。今回は4代目である太田美津江さんに、これまでの歩みや房州うちわの製造工程、伝統を繋ぐための取り組みについて伺った。
PROFILE|プロフィール
太田 美津江(おおた みづえ)
太田 美津江(おおた みづえ)

房州うちわ工房「太田屋」の4代目。房州うちわ唯一の伝統工芸士。房州うちわ振興協議会 会長。昭和52年よりうちわ作りに従事。父の一男さんから技術を受け継ぎ、生産、販売、体験事業のほか、現在は後継者の育成にも取り組んでいる。 

消費地・江戸から材料の供給地・房州へ職人が移住し一大産地へ

はじめに、御社で製造している房州うちわの特徴を教えてください。
持ち手である柄から面の部分まで1本の丸い竹でできている房州うちわは、竹がしなることで生み出されるやわらかな風が特徴です。丸い柄は握りやすく温かみがあり、使えば使うほど味が出てきます。飾って観るだけでも情緒を楽しめると思います。

当工房は曾祖父の代から受け継いだ技術で、昔ながらの和紙を貼ったものから、父が考案した浴衣地、ちりめん地を貼ったもの、最近では切り絵を貼ったうちわも制作しています。自然素材である竹の個性、面に貼るものの柄や材質によって一点一点違うものが出来上がります。 

そもそもなぜ房州(現在でいう千葉県南部の南房総市と館山市にまたがるエリア)でうちわ作りが広まったのでしょうか。
江戸時代、うちわや傘作りは武士の内職でした。贅沢禁止令によって浮世絵の制作が禁じられたときも、うちわに貼るための浮世絵だけは許可されていました。それを取り上げてしまうと武士が食べていけなくなってしまうからです。
現在の館山市にあたる地域は良質な女竹(太さ1.5cmほどのすらりと細い竹)が採れ、江戸うちわの材料の産地でした。それが関東大震災と戦争によって多くの問屋や職人が房州に移住したことをきっかけに、この地でうちわ作りが広まりました。
お米の収穫が終わった農閑期に農家の方が竹を切り出してくれ、このあたりは古くからの漁師町なので、漁に出られないときや漁師の奥さんたちの手内職として一大産地になっていったそうです。
創業から現在に至るまでの経緯を教えてください。
祖父の代までは東京の台東区・谷中のあたりで江戸うちわ(江戸時代から実用のためだけでなくアートとしても作られていた江戸を産地とするうちわ)を作っていました。戦後、父が20代の頃に一家で現在の南房総市へ移り住みました。
当時はまだ車のない時代でしたので、自転車で片道1時間以上かけて竹を買いに行き、竹を切ってくれる人を探すことからはじめ、その人に竹切りを教えて山から竹を切り出してもらっていたようです。どんな商売も立ち上げの初代は大変ですよね。
当初は個人で売るのではなく、東京からの問屋さんの注文でうちわを作っていました。そのため、私が親の手伝いをはじめた頃は、地元の方でさえ「千葉県内でうちわ作りをしているところがあるなんて知らなかった」と言う人がほとんどでした。

太田さんご自身が家業に入るきっかけは何だったのでしょうか。
私は三人姉妹の3番目で、私たちは全員、父からは「跡は継がなくていい。おまえたちは好きなことをやれ」と言われて育ちました。私が20代で子育てをしていた時期に「娘の手が離れるまでうちわ作りを手伝おうかな」と思い、手伝いはじめたことがきっかけです。
父は普段、生活習慣に厳しい人でした。ご飯を食べるときは正座をしなければいけない、自分で食べきれないものには箸をつけない、とかね。ただ、仕事に関しては父に叱られたことがないんですよ。だからうちわ作りが嫌にならなかったのだと思います。
父が亡くなって今思い返すと、私は期待されていなかったから怒られなかったのでしょう。だから、今、うちわ作りの体験で子どもたちに教えているときにもよく言うんです、「お父さんやお母さん、先生が怒るのはね、あなたに期待しているからなんだよ」って。

そんななか、後を継ぐことを意識されたのはいつ頃ですか。
父の仕事を手伝いはじめてあっという間に10年が過ぎ、千葉県から県指定伝統的工芸品製作者の看板をもらったときですね。そのときに初めて「私が後を継ぐのかな」と思い、これは本気でやらないといけないなと。それまでと気持ちが切り替わりました。
両親の加齢にともない、少しずつ私に仕事の重心がかかってきていたことからも、徐々に後を継ぐことを自覚するようになりました。
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