戦前から続く佐竹ガラス──軟質の「いずみガラス」に込められた職人技
2025.08.07
戦前から続く佐竹ガラス──軟質の「いずみガラス」に込められた職人技
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近代ガラスの製造技術が日本に伝わったのは19世紀後半。20世紀初頭には国内でも技術が確立し、多くのガラス製品が生まれるようになった。その中でも、“軟質”という特性をもつ独特な伝統工芸品「いずみガラス」は、丸みを帯びた温かみのある風合いが特徴だ。
今回は、そのいずみガラスを戦前から製作し続ける唯一の工房、佐竹ガラスを訪ね、代表である佐竹保彦さんにお話を伺った。
PROFILE|プロフィール
佐竹 保彦(さたけ やすひこ)
佐竹 保彦(さたけ やすひこ)

佐竹ガラス株式会社 社長

1946年大阪和泉市に生まれ、鉄工関連の仕事に携わっていたが、当時の社長(父)の死去に伴い事業(ガラス工場)を引継ぐ流れとなった。ガラスに関しては全くの無知であり、長年勤めていただいていた職人さん達のサポートにより、短期間で一から学ぶ事が出来た。その中でも最初に言われた事は弊社の社是にもしている「品質は会社の未来を左右する」と言う事でした。品質と言う言葉には奥深い意味があると今なお感じられます。

人造真珠の8割を製造 和泉の地を支えた手仕事とは

この町には、かつて人造真珠の文化が根付いていたそうですね。

ええ。人造真珠は大正時代から作られており、最盛期には日本のGDPの1割近くを占めていた、なんて話もあります。その約8割が、この和泉市で生産されていました。

私が知っている昭和20〜30年代のこの地域では、中卒、無給での弟子入りが当たり前でした。

でもみんな頑張っていましたよ。なぜかというと、人造真珠作りは当時のサラリーマンの10倍くらい稼げたんです。そして、腕のある人なら3か月ほどで仕事を覚えられました。

今は時代が変わり、無給の修行なんてあり得ません。そのため職人志望の若者は減り、高齢化も進んでいます。

有形文化財にも登録されている佐竹ガラス主屋
有形文化財にも登録されている佐竹ガラス主屋
色が豊富な色ガラス棒
色が豊富な色ガラス棒

鉄からガラス、そして色ガラスの世界へ

佐竹ガラスの創業について教えてください。

創業は1927年。当初は鉄工所だったのですが、先代が亡くなったのをきっかけにガラス製造に転向したのです。
最初は人工真珠用の乳白のガラス棒を作っていましたが、アメリカのバイヤーの要望で色のついた色ガラスが求められたことで、色ガラスの製造を手がけるようになりました。そして現在は、色ガラス製品の素材となる色ガラス棒やいずみガラス製品の製作を行っています。

素材や製法には、どんな特徴があるのでしょうか。

使っている主原料は創業当時から変わらずオーストラリア産のけい砂等です。
純度が高く、不純物が少ないため、発色が非常に美しい。
鉛ガラスとソーダガラス、どちらも扱っていて、色に応じて使い分けます。赤やオレンジなどの暖色系はソーダガラスでなければ出ないんです。

作業は今も基本的に手作業ですね。ガラスは坩堝(るつぼ)という容器で溶かして作ります。そのため色ごとに坩堝を変える必要があるんです。
通常のガラスなら坩堝は一つで済むので機械化が可能です。しかし色ガラスはそうはいかず、手作業の方が効率がいいという逆転現象が起きています。
ただ溶解炉の燃料だけは時代と共に変わり、木から石炭、油、ガスと移り変わっていますね。

戦後、この地域には同じような工場が20社以上ありましたが、今では私たちを含めて2社だけになりました。戦前から続いているのは、弊社だけですね。

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