唯一無二の技術で、堺市を世界に:竹野染工
2024.12.26
唯一無二の技術で、堺市を世界に:竹野染工
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ロール捺染の生地製造卸売店から自社のファクトリーブランドを立ち上げた竹野染工。伝統技術を極めてたどり着いたリバーシブル染色で、一人ひとりが喜ぶ顔を想像し、現代の生活に親しみやすいものづくりを通して、地域全体の活性化を目指している。手ぬぐいのまち、堺市の川沿いにある工房に伺い、同社代表の寺田尚志さんに話を伺った。
PROFILE|プロフィール
寺田 尚志(てらだ ひさし)
寺田 尚志(てらだ ひさし)

大阪府堺市出身。26歳で叔父の跡を継ぎ、竹野染工の代表となる。2017年には自社ブランドhiraliを立ち上げ、手ぬぐいをメインにストールや日傘など、世界で唯一となるロール捺染でのリバーシブル染色技術をいかした商品を開発し、国内外で商品を展開している。

バックパッカーから染色工場の代表に

御社の事業の始まりについて教えてください。
堺市は100年以上続く染色産業のまちです。かつて当社では、ロール捺染(なっせん)で布おむつと寝巻き用の和晒(わざらし)を染色していました。和晒は赤ちゃんの肌に触れてもいいくらい優しい肌触りです。時代とともにそれらの需要離れが進み、90年代からは手ぬぐいの染色に移行していきました。ロール捺染は手染めより大量生産することができます。

日本には、江戸時代から受け継がれている、企業が顧客にタオルを配る「お年賀タオル」の文化がありますが、90年代は手ぬぐいを配ったり、農家でも作業中に手ぬぐいを頭や首に巻いたり、日常生活でよく手ぬぐいが使われていました。そして、2000年頃からおしゃれな手ぬぐいが販売されるようになり、一般の方々が欲しいと思える色や柄が出てきました。

家業を継がれたきっかけや経緯について教えてください。
当社の2代目だった叔父が急死し、叔父の家族も私の家族もこのまま家業が途絶えてしまうことを惜しんでいる様子を見て、26歳のときに3代目として跡を継ぐことを決心しました。まず職人として染めを覚えるところから始めましたが、マニュアルは一切ないので、仕事を見て、感じながら覚える以外に方法はありません。代表になった2005年から5年間は、染めの勉強です。代表になってから12年間は加工業社として仕事を続け、2017年に自社ブランド「hirali」を立ち上げました。

昔は晒した生地を川で洗っていました。川沿いにはロール捺染を営む企業が立ち並び、1970年代には50社以上ありましたが、次々と廃業、倒産し、今では10社ほどになりました。今では、国内で手ぬぐいを染色する小幅ロール捺染を専業としている企業は当社しかありません。
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