ガラスに刻まれた時代の記憶 江戸切子の歴史を紐解く
会員限定記事2025.10.15
ガラスに刻まれた時代の記憶 江戸切子の歴史を紐解く
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先日、一つの江戸切子のグラスを手にする機会がありました。光を複雑に反射させる緻密なカットは、ただ美しいという言葉だけでは表現しきれない、静かな緊張感と奥深さをたたえていました。この小さなガラスの器が、一体どのような時間を経て、私の手の中にあるのでしょうか。その輝きの背景には、日本の大きな時代の転換期と、異国の技術との出会いがありました。今回は、江戸切子の歴史を辿り、そのガラスに刻まれた物語を紐解いていきたいと思います。

江戸の美意識「粋」とガラスの出会い

江戸切子の起源は、江戸時代後期の1834年(天保5年)に遡ります。江戸大伝馬町のびいどろ問屋であった加賀屋久兵衛が、金剛砂(こんごうしゃ)という研磨剤を用いて、ガラスの表面に彫刻を施したのがその始まりとされています。

当時の江戸は、すでに日本最大の消費都市であり、富裕な町人や武士階級によって巨大な市場が形成されていました。長崎の出島を通じて輸入された海外のカットガラス製品は、「びいどろ」や「ぎやまん」と呼ばれ、人々の憧れの的でした。しかし、それらは非常に高価で、誰もが手にできるものではありませんでした。

加賀屋久兵衛の試みは、この高価な舶来品を国内の技術で再現しようとする、当時の職人の創意工夫から生まれたものです。それは、海外の奢侈品を研究し、国内市場の需要に応えるために生産方法を適応させるという、日本の工芸史における一つの典型的な姿でした。江戸という巨大な消費地と、そこに住まう人々の洗練された美意識「粋(いき)」が、この新しい工芸品を育む土壌となったのです。派手な豪華さではなく、近づいてよく見たときに初めて真価が分かるという粋の精神は、江戸切子の美意識と深く通じています。

史跡 出島和蘭商館跡<br>寛永18年(1641)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間、国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や��文化が伝えられた。
史跡 出島和蘭商館跡
寛永18年(1641)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間、国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられた。

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