信楽焼の歴史は「適応」の物語:なぜ800年以上も愛され続けてきたのか?
会員限定記事2025.11.05
信楽焼の歴史は「適応」の物語:なぜ800年以上も愛され続けてきたのか?
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信楽焼と聞くと、多くの人が二つの異なるイメージを思い浮かべるかもしれません。1つは、わび・さびの風情を湛える、素朴で力強い茶道具の世界です。そしてもう1つは、店の軒先で愛嬌たっぷりに佇む、商売繁盛の縁起物である狸の置物です。一見すると対照的なこれらの顔は、実は信楽という産地が歩んできた、800年以上にもわたるダイナミックな歴史そのものを映し出しています。
この記事では、信楽焼がどのようにして時代の要請に応え、自らの姿を変えながら現代まで続いてきたのか、その驚くべき「適応」の物語を、歴史を遡りながら追っていきます。

始まりは農民の「道具」だった鎌倉時代

今日の信楽焼に直接、繋がる窯業が本格的に始まったのは、鎌倉時代の中期、13世紀のことです。その頃、作られていたのは、美術品や嗜好品ではありませんでした。甕(かめ)や壺(つぼ)、擂鉢(すりばち)といった、当時の人々の農業を中心とした日々の暮らしに欠かせない、実用的な「道具」がその中心だったのです。

特に興味深いのは、当時の信楽焼が、技術的には先進地であった常滑焼(とこなめやき)の影響を強く受けていたという点です。これは、信楽焼が最初から独自の道を歩んだのではなく、他の産地の優れた技術を学び、取り入れることから始まったことを示しています。その製品は、あくまで機能性を第一に考えられたものであり、流通範囲も近江(おうみ、現在の滋賀県)や京、大和(やまと、現在の奈良県)といった近隣地域に限られていました。この時代の信楽焼は、まだ全国にその名を知られる存在ではなく、地域の人々の生活を支える、工芸でした。


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