津軽塗の歴史を辿る:藩政時代から国の重要無形文化財になるまで
会員限定記事2025.10.29
津軽塗の歴史を辿る:藩政時代から国の重要無形文化財になるまで
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津軽塗の歴史は、単なる年表の連続ではありません。それは、一人の藩主が抱いた産業振興の目標から始まり、職人たちの技と情熱、そして時代の大きな変化に対応してきた人々の意志が織りなす、三百数十年にわたる物語です。調べてみて特に興味深いと感じたのは、その歩みそのものが、この製品の特質である「回復力」と「堅牢性」を映し出しているかのように見える点です。ここでは、その壮大な歴史の軌跡を、時代の節目ごとに辿っていきます。

江戸時代:弘前藩の産業振興から生まれた黎明期

津軽塗の物語は、江戸時代中期、弘前藩の4代藩主・津軽信政(つがるのぶまさ)の治世に始まります。信政は藩の産業を育成するため、漆器の先進地であった若狭(現在の福井県)から塗師(ぬし、漆工芸の職人)の池田源兵衛を招きました。これが、津軽の地に漆器文化を根付かせる大きな一歩となります。

当時の若狭は、すでに漆器の先進地として知られていました。そこから専門の職人を招くという信政の決断は、藩の文化と経済を豊かにしたいという強い意志の表れであったと言えるでしょう。しかし、源兵衛は志半ばで病に倒れてしまいます。ですが、物語はここで終わりませんでした。その遺志を継いだ息子の源太郎が、父の夢を背負って江戸で修業を積み、津軽独自の漆器技術の礎を築いたのです。

当初、その精緻で堅牢な塗りの技術は、武士の刀の鞘(さや)に用いられました。平和な江戸時代において、刀剣は実用的な武器としてよりも、持ち主の権威や身分を示す装飾品としての意味合いが強くなっており、津軽塗の深みのある色彩と複雑な模様は、刀を美しく飾るのに最適だったのです。

やがて、その優れた技術は刀の鞘だけにとどまらず、文箱(ふばこ、手紙などを入れる箱)や硯箱(すずりばこ)、そして儀礼の席で使われる重箱といった、さまざまな調度品へとその用途を広げていきました。弘前藩は、これらの優美な漆器を幕府や朝廷、他の大名への格式高い贈答品として活用し、津軽塗の名声と価値を全国に高めていったのです。この時代、津軽塗は藩の手厚い庇護のもとで技術を磨き上げ、その後の発展の揺るぎない土台を確立しました。

明治時代:藩の庇護を失うも、「津軽塗」の名で世界へ

江戸幕府が終わりを告げ、明治時代が訪れると、津軽塗は最大の危機を迎えます。1871年(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん、藩を廃止して府と県を置いた行政改革)により、最大の支援者であった弘前藩を失い、産業は一時、衰退の道を辿ることになりました。藩という強力な後ろ盾を失った職人たちの不安は、さぞかし大きかったことでしょう。

しかしこの危機が、津軽塗を新たなステージへと押し上げる大きな転機となります。1873年(明治6年)、政府は日本の国力を世界に示すため、オーストリアの首都ウィーンで開かれる万国博覧会へ参加することを決定します。その際、青森県から出品された漆器に、産地を明確にするための公式な名称として「津軽塗」という名が与えられました。これが、津軽塗の名が国際的に、そして日本国内で広く公式に認知されるようになった瞬間です。

この出来事をきっかけに、津軽塗は藩の庇護下にあった工芸品から、近代的な産業へと生まれ変わる道を歩み始めます。青森県が新たな支援者となり、1907年(明治40年)には、職人を組織的に養成するための工業講習所が開設されるなど、後継者育成の体制も整えられていきました。大正時代にかけては販路が全国に拡大し、富裕層だけでなく、より広い層に向けた製品が作られるようになり、津軽塗は新たな市場で確固たる地位を築いていったのです。

画像協力:青森県漆器協同組合連合会
画像協力:青森県漆器協同組合連合会

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