若狭地方における玉作りの歴史は古く、一説には奈良時代まで遡るとも言われています。しかし、現在の若狭めのう細工に直接つながる技術的な始まりは、江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗の治世であった享保年間(きょうほねんかん、1716年~1736年)に確立されたというのが定説です。
この物語の中心にいるのは、若狭の地から当時の日本の商業中心地であった大阪の眼鏡屋へ奉公に出ていた高山吉兵衛という人物です。彼はその奉公先で、瑪瑙(めのう)の原石に熱を加えることで美しい赤色に発色させる「焼き入れ」の技術を習得しました。
故郷の若狭に戻った彼は、この先進的な技術を用いて瑪瑙の丸玉作りを始め、これが若狭めのう細工という産業の礎となったのです。当初は丸い玉や、着物の帯に小物を提げるための留め具である根付(ねつけ)などが主に作られていました。
しかし明治時代に入ると、中川清助という職人の登場によって、若狭めのう細工は大きな転換期を迎えます。彼は従来の玉作りに留まらず、瑪瑙という硬い素材に精緻な彫刻を施す技術を開発し、鯉や鶏といった動物の置物など、 立体的な美術工芸品を次々と生み出しました。
彼の作った作品は国内外の博覧会で高く評価され、若狭めのう細工の名は芸術品として世界に知られることになりました。このように、大阪から伝わった一つの技術が、若狭の地で職人たちの手によって芸術の域にまで高められていったのです。