日本での第一歩
私が日本を好きになった理由を尋ねられたとき、幼少期のエピソードを思い出します。90年代に母がオープンした日本食レストランは、当時フランスでは生魚を食べる習慣がなかったため、成功しませんでした。また、祖母に連れられて観に行ったナショナルジオグラフィックの日本に関するドキュメンタリー番組のスライドショーや、私の故郷レンヌで開催された日本映画祭、あるいは、家族経営のホテルとレストランの宣伝のために京都を訪れた際に買ってきてくれた帯や墨汁のことも思い出します。
パリの装飾芸術学校の学生だった頃に、親友の父親である齋藤峰明(さいとうみねあき)氏と出会ったことがきっかけで、日本とのつながりが生まれました。彼は日本人で、エルメスでキャリアを積み、同社の日本法人を立ち上げた人物でした。彼が自分の専門知識を日本の職人たちに提供するために会社を去ることを決めたとき、齋藤氏は京都のテキスタイルに関する最初のプロジェクトにデザイナーを必要としており、私に同行を勧めてくれました。私はためらうことなく日本へ行き、京都と京丹後で最初のプロジェクトに取り組みました。その後、パリにあるインテリアテキスタイル会社のピエール・フレイ(Pierre Frey)でデザイナーとして数年間働き、その半年後にはパリで自身のデザインスタジオを立ち上げました。
日本での最初のプロジェクトで、私は日本の職人技の豊かで複雑な世界に深いインスピレーションの源を発見しました。職人たちと仕事をするために、3年にわたって年に4回ほど京都に足を運ぶうちに、この愛情は確かなものとなりました。より深く日本を知りたいという想いから、友人にサポートしてもらい、2019年に京都にデザインスタジオを構えるために日本に移り住んできました。
シャルロット・ペリアンの足跡をたどって
私は、多くのクリエイティブな人々と同様に、日本の豊かな文化と芸術的遺産にすぐに魅了されました。その神秘的な美しさ、ミニマルなスタイル、細部へのこだわり、所作の重要性、素材への敬意は、シャルロット・ペリアンをはじめ、1940年代のフランスにおける多くのアーティストやデザイナーに影響を与えてきました。彼女が日本を旅し、日本で働いていたことを知ったとき、私は彼女の作品、特に山形の職人たちと取り組んだ作品にさらに興味を持ちました。この近代デザインの先駆者は、職人たちと仕事をするためにかなりの時間を日本で過ごし、彼女の思想体系、審美眼、ビジョンを日本の伝統技術と融合させました。
これが私の心に深く響くことになります。彼女の作品は、伝統と現代性、西洋と東洋のビジョン、美と実用性を融合させることで、私たちの現代生活にふさわしい、持続可能な、新たな美意識や意義深い作品を創造できることを示しています。この考えが、私自身の進むべき道にインスピレーションを与えてくれたのです。私はフランス人デザイナー、アーティスト、クリエイティブ・ディレクターとして、日本に移り住んだ際、素朴ながらも謙虚さと情熱によって、ヨーロッパの感性と日本の伝統を融合させた新しい視点を持ち、この古くからある工芸品に新しい命を吹き込むことができると考えました。
4年前、新型コロナウイルス感染症が流行していた時期に、私は東京のクラフトフェアで出会った、稲わら細工職人であり山伏でもある成瀬正憲さんに会うために東北地方を訪れました。彼は山の中で生活しており、山菜を採ったり、稲わらや熊の毛皮で草履を編んだりしていました。マサノリさんは、日本の工芸の伝統と特に深い関わりのある場所を案内してくれました。山形県鶴岡市の小さな美術館では、シャルロット・ペリアンが地元の職人たちとコラボレーションした成果が展示されていました。
この経験は私のビジョンを明確なものにしてくれました。フランス人が、地元の伝統に根ざした新しい製品を創り出すことで、日本の職人技の世界に何か重要なものを持ち込むことができる。伝統的な技術とノウハウを用いながらも、ヨーロッパ人デザイナーの視点から物事を見て、新しいアイディアを加えることでそれが可能になり、さらには理にかなっているのです。渡文株式会社(織成舘)/京都府京都市