波佐見焼の歴史は、16世紀末の1598年頃に遡ります。豊臣秀吉による朝鮮出兵の後、地元領主であった大村藩の大村喜前が、朝鮮半島から陶工らを伴い、波佐見の地に窯を築かせたことがその始まりとされています。考古学的な調査によると、最初期の製品は施釉(せゆう)陶器であったことが確認されています。その後、波佐見の窯業は大きな転換点を迎えます。村内で磁器の原料となる陶石が発見され、生産の主軸が陶器から磁器へと移行したのです。特に1630年代に三股砥石川で大規模な陶石の採石場が見つかったことは、この変化を加速させました。この採石場は国の史跡にも指定されており、産地の歴史におけるその重要性を示しています。
江戸時代に入ると、大村藩は磁器を特産品と位置づけ、藩を挙げて窯業を支援しました。1666年には「皿山役所」という行政機関を設置し、200年以上にわたって生産の管理と育成を担うなど、意図的な殖産興業政策を進めました。この藩の後ろ盾のもと、波佐見焼の歴史を方向づける2つの重要な製品が生まれます。
一つは、国内の大衆市場に向けた「くらわんか碗」です。厚手で丈夫、そして手頃な価格であったこの碗は、呉須(ごす)という藍色の顔料で唐草模様などが素早く描かれた簡素なデザインでした。その名は、大坂の淀川で「酒くらわんか、餅くらわんか」と声をかけながら飲食物を売っていた小舟の商人が用いたことに由来するといわれます。それまで高級品であった磁器を、庶民が日常的に使える器として普及させ、日本の食文化の基盤を支えるという大きな役割を果たしました。波佐見はこのくらわんか碗の一大生産地となり、江戸後期には染付磁器の生産量で日本一を誇るまでに成長します。