2021.05.12

【リレーコラム】なんでこの服買ったの?―彫像、写真、動画の衣服(きりとりめでる)

#リレーコラム:Fashion / Technology
heroImage

毎月の連載としてお届けするリレーコラム『Fashion/Technology』では、様々な分野で活躍する書き手の方々をお招きし、衣服、身体、文化産業、消費文化、メディア、空間、コミュニケーションといった多様なキーワードから「ファッション」や「テクノロジー」をめぐる視点を繋いでいきます。

第1回目となる今回は、批評家のきりとりめでるさんによるテクストをお届けします。

PROFILE|プロフィール
きりとりめでる
きりとりめでる

1989年⽣まれ。写真論と現代美術を中心に企画、執筆、編集を⾏なっている。2017 年から美術系同⼈誌『パンのパン』を発⾏。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論』(共編著、BNN新社、2018年)がある。プロフィールと本文のイラストレーションは山本悠によるもの。

朝から10時間働き、失っていく服を買う時間。満員電車で行く道90分、せめて自分のための服を買おう。ファッションECサイトのアプリをひらいた。見切れるはずもないたくさんの商品が並んでいる。漠然と服を見たいので、とりあえずスクロールする。Twitterで誰かが、いまのナンセンスの在処を、サイトのランキング上位で服を取り敢えず買うやつだと言っていた。Amazonで評価と星が積み重なったUSBケーブルを買うのは良くて、食べログの3.7評価の無花果タルトを買いに走るのは良くて、cookpadの上位レシピは課金しないと分からないのに、なんで信頼と実績のこのロングスカートを選ぶのはダメだというのだ。きっとここでのダサいというのは、個別のECサイトの利用についてというよりも、ランキングを自身の無選択の選択の免罪符として語ること自体だろう。では、その一方で何を基準に服を買う?

ちょっと迂遠だが、最近刊行された蘆田裕史の『言葉と衣服』に出てきた、衣服と身体の関係性についての議論から始めよう。蘆田はジャック・デリダが彫像は衣服なしにその人物の社会性を表し得ないとしたことを引きながら、衣服は付加物でもありながら、「人が社会的存在として描かれるかぎりにおいて、衣服は必要不可欠」であるがゆえに、分離不可能なものだと論述する。更には、アバターを作成するゲームを例に、アバター(衣服)が自分自身(の身体)でもあるゆえに、衣服は身体であり、身体は衣服にもなるという潜在性を導き出した。だからと蘆田は次のように結ぶ。「私たちは衣服から逃れることはできない。この先、私たちの生活が完全にヴァーチャル空間で完結することになったとしても、それは変わることのない原則である」(p.157)。

果たして、いまはどのように衣服と身体は結びついている?この数年のメディア環境の中で考えてみよう。InstagramやTikTokやZOOMで自己を写真や映像にのせて流通させる現状は、蘆田に引きつけてセミヴァーチャルといえる。ここで身体と衣服は彫像のように一体化するのではなく、写真や動画といった媒体を介在させている。プチプライスのファッションECサイトが、まったく着用例としては役に立たないモデルの鏡像やセルフィーといった、むしろ撮影例のような写真を使用し、それが商品写真として機能してるのはただの偶然ではない。インスタグラムでハイブランドがショーの動画をアップできるのと同じフィードに、わたしたちもまた衣服の着用動画をアップできる。動画機能が追加されてはじめて、衣服の立体性やグリッターなどの煌めきを、インスタグラムは身体=衣服として示すことができるかもしれない。ソーシャルメディアが写真や動画によって身体と衣服を包むとき、ソーシャルメディアもまたユーザーの身体であり、衣服でもあるのだ。たったいまは写真や動画のための衣服、身体が存在するのである。染織技術や設計手法の更新によって可能になるファッションがある一方で、テクノロジーに志向されるファッションがあるということだ。 

いま生活はヴァーチャルで完結できないが、衣服の購入自体は来店・試着なしにECサイトで遂行可能だ。身体の計量化を推し進めるECサイトの機能拡充は店舗展開との差別化を目指しテクノロジーを導入してきている。ユーザーごと身体を前提にアプリを稼働させようとするECサイトに、わたしたちは規定的で標準的な身体=衣服から開放される萌芽を見出すことができるはずだ。鏡像の商品写真でよしとするECサイトがある一方で、商品写真にモデルの身長が記載され、袖丈や裾のボリュームを想像しながら服を買うことができるECサイトやファッション通販雑誌は多い。

 倒錯した二項対立だが、ファッションECサイトの潮流を大きく分けてみよう。衣服=身体の数値化に根ざした脱実店舗志向の着用例型と、モデルの鏡像セルフィーに更には無料アプリの分かりやすい痩身エフェクトを是認する撮影例型。この撮影例型の核は、商品写真に用いられたエフェクトをユーザーも使えるし、ユーザーは使った効果がどの程度のものかすら分かるという意味で、ユーザーにとっての真正性が担保されているということだ。モデルとユーザーが同じ地平で互いの身体=衣服を撮影例の中で思考実験的に交換しえるのだ。
 この二項をもう少しだけ進めるために、実身体のモデルによるセルフィーとは別の、撮影の低コスト化の動きに思いをはせる。特に、任意のモデルの写真と衣服のサイズデータから理論的に正しい着用例写真を生成する、敵対的生成ネットワークを用いた方向の着用例の商品写真である。例えば色違いのバリエーションを見せるのにモデルの着替えも不要で、衣服の着用感が全種わかるのに有用だと思えても、同じモデルの同じポーズの写真で服だけが変われば変わるほど、そのモデルの身体と衣服が渾然一体となり、身体でも衣服でもない図像としてわたしには迫ってくる気がする。この感覚は、セミバーチャルに慣れ親しむわたしにとって理論的ファッション写真が、いまはまだ着用例としても撮影例としても目に慣れていないだけだろうけど。

なぜこの服を買ったのか。カシミアの比率が同値段帯でも大きいからか、セルフィーで写りこむ裾が可愛いからだろうか、または誰かが着ていて良さそうだったからか。写真や動画が衣服と結びつくいまは、全面的なアバター時代に至るまえの、非常に過渡的な瞬間である。撮影例的=媒体に自覚的な状態だからありうるECファッション写真は、いつかセミバーチャルを生み出す媒体とともに消え、衣服が透明になるときに着用例へと変わるはずだから。ECサイトで買っては見当違いと服の返品を繰り返すわたしだが、この束の間の媒体とファッションの結び付きもいまは楽しみたい。

#Social Commerce
LINEでシェアする