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【リレーコラム】なんでこの服買ったの?―彫像、写真、動画の衣服(きりとりめでる)

毎月の連載としてお届けするリレーコラム『Fashion/Technology』では、様々な分野で活躍する書き手の方々をお招きし、衣服、身体、文化産業、消費文化、メディア、空間、コミュニケーションといった多様なキーワードから「ファッション」や「テクノロジー」をめぐる視点を繋いでいきます。
第1回目となる今回は、批評家のきりとりめでるさんによるテクストをお届けします。
PROFILE|プロフィール
きりとりめでる
きりとりめでる

1989年⽣まれ。写真論と現代美術を中心に企画、執筆、編集を⾏なっている。2017 年から美術系同⼈誌『パンのパン』を発⾏。著書に『インスタグラムと現代視覚⽂化論』(共編著、BNN新社、2018年)がある。プロフィールと本文のイラストレーションは山本悠によるもの。

朝から10時間働き、失っていく服を買う時間。満員電車で行く道90分、せめて自分のための服を買おう。ファッションECサイトのアプリをひらいた。見切れるはずもないたくさんの商品が並んでいる。漠然と服を見たいので、とりあえずスクロールする。Twitterで誰かが、いまのナンセンスの在処を、サイトのランキング上位で服を取り敢えず買うやつだと言っていた。Amazonで評価と星が積み重なったUSBケーブルを買うのは良くて、食べログの3.7評価の無花果タルトを買いに走るのは良くて、cookpadの上位レシピは課金しないと分からないのに、なんで信頼と実績のこのロングスカートを選ぶのはダメだというのだ。きっとここでのダサいというのは、個別のECサイトの利用についてというよりも、ランキングを自身の無選択の選択の免罪符として語ること自体だろう。では、その一方で何を基準に服を買う?
ちょっと迂遠だが、最近刊行された蘆田裕史の『言葉と衣服』に出てきた、衣服と身体の関係性についての議論から始めよう。蘆田はジャック・デリダが彫像は衣服なしにその人物の社会性を表し得ないとしたことを引きながら、衣服は付加物でもありながら、「人が社会的存在として描かれるかぎりにおいて、衣服は必要不可欠」であるがゆえに、分離不可能なものだと論述する。更には、アバターを作成するゲームを例に、アバター(衣服)が自分自身(の身体)でもあるゆえに、衣服は身体であり、身体は衣服にもなるという潜在性を導き出した。だからと蘆田は次のように結ぶ。「私たちは衣服から逃れることはできない。この先、私たちの生活が完全にヴァーチャル空間で完結することになったとしても、それは変わることのない原則である」(p.157)。
果たして、いまはどのように衣服と身体は結びついている?この数年のメディア環境の中で考えてみよう。InstagramやTikTokやZOOMで自己を写真や映像にのせて流通させる現状は、蘆田に引きつけてセミヴァーチャルといえる。ここで身体と衣服は彫像のように一体化するのではなく、写真や動画といった媒体を介在させている。プチプライスのファッションECサイトが、まったく着用例としては役に立たないモデルの鏡像やセルフィーといった、むしろ撮影例のような写真を使用し、それが商品写真として機能してるのはただの偶然ではない。インスタグラムでハイブランドがショーの動画をアップできるのと同じフィードに、わたしたちもまた衣服の着用動画をアップできる。動画機能が追加されてはじめて、衣服の立体性やグリッターなどの煌めきを、インスタグラムは身体=衣服として示すことができるかもしれない。ソーシャルメディアが写真や動画によって身体と衣服を包むとき、ソーシャルメディアもまたユーザーの身体であり、衣服でもあるのだ。たったいまは写真や動画のための衣服、身体が存在するのである。染織技術や設計手法の更新によって可能になるファッションがある一方で、テクノロジーに志向されるファッションがあるということだ。 
いま生活はヴァーチャルで完結できないが、衣服の購入自体は来店・試着なしにECサイトで遂行可能だ。身体の計量化を推し進めるECサイトの機能拡充は店舗展開との差別化を目指しテクノロジーを導入してきている。ユーザーごと身体を前提にアプリを稼働させようとするECサイトに、わたしたちは規定的で標準的な身体=衣服から開放される萌芽を見出すことができるはずだ。鏡像の商品写真でよしとするECサイトがある一方で、商品写真にモデルの身長が記載され、袖丈や裾のボリュームを想像しながら服を買うことができるECサイトやファッション通販雑誌は多い。
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#Social Commerce
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