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【リレーコラム】装いを変えるわたし、装いが変えるわたし――コミュニケーションとしてのファッション(庄子諒)

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PROFILE|プロフィール
庄子諒
庄子諒

専修大学人間科学部兼任講師ほか。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。専門は、社会学、社会調査、コミュニケーション論。2011年に発生した東日本大震災・原発事故後の福島をフィールドに、おもにユーモアや笑いがもつ社会的機能に着目しながら、問題状況下での経験とコミュニケーションをめぐる課題や可能性について、質的調査をとおした研究を行っている。

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装ってしまう、ということ

ある朝、目が覚めると、自分が透明人間になっていたら、という想像を一度でもしたことがあるひとは、少なくないだろう。子どもの頃、いちばんに気になっていたのは、透明人間が服を着て出かけたら、服だけがぷかぷかと街なかを浮遊することになってしまうのだろうか、ということだった。
もしそうだとしたら、透明人間であること、つまり自分が何者であるのかをまわりに晒さないようにしようとすると、なにも身に着けないほうがよいことになる。翻って、なにかを身に着けてしまうことは、自分が何者であるのかを、まわりに晒してしまうことになる。――じつは、透明人間になどなっていない、いつもの朝であっても、なにかを身に着けることには、そういうジレンマが少なからず付きまとうのではないだろうか、という思いが、たとえばその日着ていく服に悩むとき、浮かんでくる。
自分が何者であるかを表したくないならば、なにも身に着けなければよいのかもしれないけれど、透明人間ではないわたしは、そうするわけにはいかない。そして、なにかを身に着けて外に出たとたんに、それらが、避けがたく他者にむけて自分のことを表現するメッセージのひとつひとつになってしまう。なにかを装うことは、他者にむけて自己を表現する、正確には、おのずと表現してしまう、ということである。言い換えるならば、装いとは、すぐれて、他者とのコミュニケーションの回路であるといえるだろう。

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