京都工芸繊維大学未来デザイン・工学機構教授の水野大二郎氏とお届けする特集企画「ファッションデザインとテクノロジー」。第3回はアーティスト・デザイナーとして活躍している長谷川愛氏との対談をお届けします。
長谷川氏は、バイオアート、スペキュラティブ・デザイン、デザイン・フィクションなどの手法や、ジェンダーをはじめとする現代的課題に強い関心を持ち、テクノロジーと人のあり方を問う作品などを、いくつも発表しています。
水野氏が尊敬するアーティストであるとともに、京都工芸繊維大学でともに活動を行う機会もあるなど、2人はジャンルを超えた関わりを持っています。
そんな長谷川氏が最近注目しているテクノロジーとは一体何なのでしょうか。独自の観点からお話をいただきました。
1979年生まれ。京都工芸繊維大学未来デザイン・工学機構教授、慶應義塾大学大学院特別招聘教授。ロイヤルカレッジ・オブ・アート博士課程後期修了、芸術博士(ファッションデザイン)。デザインと社会を架橋する実践的研究と批評を行う。
近著に『サステナブル・ファッション: ありうるかもしれない未来』。その他に、『サーキューラー・デザイン』『クリティカルワード・ファッションスタディーズ』『インクルーシブデザイン』『リアル・アノニマスデザイン』(いずれも共著)、編著に『vanitas』など。
アーティスト、デザイナー。バイオアートやスペキュラティヴ・デザイン、デザイン・フィクション等の手法によって 、生物学的課題や科学技術の進歩をモチーフに、現代社会に潜む諸問題を掘り出す作品を発表している。
2012年、英国Royal College of Art, Design Interactions にてMA修士取得。2014年から2016年秋までMIT Media Lab,Design Fiction Groupにて研究員、2016年にMS修士取得。2020年から自治医科大学と京都工芸繊維大学にて特任研究員。
(Im)possible Baby, Case 01: Asako & Morigaが第19回文化庁メディア芸術祭アート部門にて優秀賞受賞。森美術館、上海当代艺术馆、イスラエルホロンデザインミュージアム、ミラノトリエンナーレ2019、アルスエレクトロニカ、NY MoMA、スミソニアン等、国内外で展示を行う。著書「20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業 」を出版。
今回のテーマは、「ファッションデザインとテクノロジー」と題しています。この点について、長谷川さんはどんなことに関心がありますか。
私は、最近没入系のプロジェクトが気になっています。ファッションに紐づくVRの話をすると、最近水野さんに教えてもらった「LARP」(Live action role-playingの略。現実で設定されたファンタジー世界の中で、ゲームの参加者たちが、それぞれキャラクターになりきって行動して楽しむ、ごっこ遊びのこと)と、すごく相性がいいなと思いました。
「VICE」の「LARPing Saved My Life」は、LARPにハマって日常生活とファンタジー生活を送っている男性を特集した動画ですが、ある意味VRで起こっていることと同じで、彼らのファッションに対するディテールのこだわりも、没入感の1つとして機能しているんだろうなと思いました。
そして、私が昨年ロンドンで鑑賞した「The Burnt City」(イギリスの劇団・パンチドランクによる演劇作品)という「イマーシブシアター」(体験型の演劇作品)がすごくVRらしさがありました。
VRの行き着くところって、ある意味ディズニーランド的なところがあるなと、以前からなんとなく思っていたものの、私の中で「ディズニーランドの上位互換が出てきた」という感じです。
「The Burnt City」は、物語的にも、音的にも、建築的にも導線的にも、経験的にも、細部にまで全部こだわって、非常に上手に作られていて、元々工場だった建物の中にコンパクトに街が作られており、その中を歩き回って体験するパフォーマンス作品です。
微妙に異世界を体験する感じが本当にリアルなVRみたいだなと思いつつ、「良いVR体験=イマーシブシアター」なんだというのが、最近の私の気付きです。
ジェンダーやエスニシティ、あるいはルッキズムなどなどが複雑に絡み合うインター・セクショナリティなどを前提に、どういう世界観が我々にはあり得るんだろうかと考えるにあたって、もしかしたら、イマーシブシアターとかLARPなどの没入型の体験が、実効性を伴うメディアとして我々の目の前に迫ってきているかもしれないと。
もちろん、物語のプロットがよくできているとか、小道具の作り込みがすごいという話もあると思います。ですが、イマーシブシアターやLARPは映画などと比べて参加者の主体性を帯びた鑑賞体験になるし、より議論を誘発しやすいものになっているのではないか、未来としての物語世界に没入し体験しやすい点が新しい価値になりつつあるのではないか、ということですね。
今までデザイン・フィクションをやっていた人たちって、小道具(ダイエジェティック・プロトタイプ)を非常に大切にしてきたと思います。
SF作家のブルース・スターリングや、アーティストで技術研究家のジュリアン・ブリーカーも、みんなウェアラブルデバイスや、ある特定のあり得る未来に存在する技術と、それを表象する小道具を大切にしていたわけですが、長谷川さんは、LARPやイマーシブシアターの中に、ウェアラブルテクノロジーやユビキタス・コンピューティングなどのプロトタイプが入り込む余地ってあると思いますか。
そうですね、今存在しないプロダクトや小道具を設定して、それとともに私たちがどのような暮らしをしていくのか、そういった「ごっこ遊び」を通じたシミュレーションが複数人でできる余地があると思います。
一方で今回のイマーシブシアターやLARPについて考えると、むしろ今依存しているテクノロジーから私たちをどれだけ切り離すか、つまり、スマホからいかに人々を遠ざけるか、ということです。
イマーシブシアターの1つの驚きとしては、特定の世界を体験しているものの、そこでは自分のスマホが使えないので、誰もスマホを見ていないし、写真も撮ってない。その点が逆に異世界感があって面白いなと思ったんです。
今のリアリティって「スマホとともにあることがリアリティなんだな」と気づかされたんです。
LARPにしてもイマーシブシアターにしても、スマホを出さないで体験することが重要ですし、楽しい、ということが、リアリティはスマホとともにあるという気づきと接続するのは興味深いですね。
現実世界から切断するわけだから、現実世界を認識する方法としてのスマホは必要がないという点が、すごく面白いポイントだなと思いました。
それがさらに拡張するのが、VR環境の位置付けですかね。LARPや イマーシブシアターは、結局自分の身体そのものは変えることができないけれど、VRはそれを超えちゃうものになれる、という意味で。
そうですね。VRと、イマーシブシアターやLARPには大きな違いがあって、後者のリアルな「ごっこ遊び」は、どうしても「ファッションを頑張っているけど、見た目がやっぱり遠いよね」みたいな、自分の肉体から出られない、規定されてしまう部分があるけれど、VRではアバターとしてログインして、人と関わり続けるため、自分のアイデンティティとファッションがすごく一体化していると思いました。
VRなどのバーチャルだと、自分の身体をジェンダー含めて着替えることができるのも、全然違うところだなと思っています。そこで、「バ美肉」(バーチャル上で美少女のアバターをまとうこと)が味わい深いなと思っているんです。
あのバ美肉をやっている人たちの意見を見てみると、美少女がインターフェイスとして「優しそう、怖くない」のでコミュニケーションがしやすいという、利便性の高さも理由にあるようなんです。
視覚と聴覚のみで、距離間やサイズ感など肉体的な圧力を強く感じるVRにおいて、便利なインターフェイスとして美少女が流通していることを深く感じました。
バーチャル環境上でも、LARPやイマーシブシアターでも、結局は対人の関係性をどう作るかが問われますね。
イマーシブシアターは、参加者にお面を付けさせて匿名化する。LARPの場合は、特定の物語世界に入り込めるような共通のコミュニケーション基盤のために衣装をまとう。
これに対して、VRはその上を行くことができる。自分が相手とどういう関係を作りたいかの自由度がさらに増しているので、仲良くなりたい人は「か弱いキャラ」をあえて身にまとうのかもしれない。
男性的に、格闘で人を倒したり収奪したりするのならいいのだろうけども、社交したり仲良くなったりしたい場合は、それに適したキャラを身にまとうことが重要になる、といった調子でしょうか。
今までは、ファッションである程度自分の身体像はコントロールできた。敵対的な感じでいきたいんだったら、1番わかりやすいのは「私に近寄らないでください」って書かれたTシャツを着るとかね(笑)。
でももう、そういう次元じゃない。VR上のキャラクターはスキンだということですよね。身体と一体化している、アバターと一体化しているのがスキンである。そう考えるとファッションは、人間同士のコミュニケーションを自分のより良い方向に持っていくための存在を、より今後強くしていくのかもしれません。
ですので、バ美肉おじさんがみんなと仲良くなりたいと思うことは、非常に面白い点ですね。
そうですね。その一方で、非モテの人たちもそうですが、女性に興味はあるけれど、いろいろと現実ではうまくいかないし一緒になれない人が、女性に対して攻撃的になるケース、インセルやフェミサイドもある状況で、おじさんたちが美少女化して、バ美肉さん同士たちでコミュニティを作ったり、「お砂糖」(恋愛パートナー)と言われている関係を作ったりしているのは、ある種平和だなと思っています。
そしてそこでセクハラの被害を体験している方も出てきて、女性であることのネガティブ面に気づいたりもして。
そう考えると、男女双方に向けた最強のアバターって子猫なんじゃないかと思うんですが、性別を変えられるのに、なぜ種を超えていく人がまだそんなに出てきてないのかが、個人的に興味深いですね。
僕もそう思ったんですよ。インターネットといえば子猫。MITの研究者でも、インターネットが発達したのはかわいい子猫のおかげだ(Cute Cat Theory)って言う人もいるくらい。
あと、カスタマーサービスのアイコンを女性にすると扱いが悪くなるけど、猫とか動物になると怒りが収まるという話を聞くと「デザインの力」って思いますよね(笑)。
アバターとして選択肢にあってもおかしくない子猫が、なぜ少 ないのか。子猫であっても、VRチャット上では話ができる相手と認識されるはずですけれど、牛でも、犬でも、鳥でも、異種になろうとする人が今のところ目立っていないのは面白いですよね。
人に優しくしてもらいたいんだったら、明らかに濡れた子猫の方がいいわけですけどね(笑)。
そういう意味では「獣耳をつけた美少女」が最強ということに行き着くのかもしれない。また、バ美肉さんたちは性的なことも想定しているので、子猫に対してはその辺りが影響するのかもしれません。
確かに、性的な問題もありますね。すると、対象として子猫は外れてしまうのかもしれない。バーチャル環境上でどういうスキンにしたら欲望されるのか、という問題もあるのかもしれないですね。
可愛い+大きな胸が基本で、日本においてはそれが最強ですよね。
日本の アバターはアニメの影響なのか何なのか、胸が極端に強調されていることがありますよね。その身体に多様なカワイイ要素を付け足し、それなりの記号性を作り出すことができる。このような方法が日本のVR環境でのアバターのデファクト・スタンダードになりつつあるのではと思います。
非現実的な表現をアバターの世界に応用させて、ますます現実の身体とは違う、仮想的な身体のための服に向かっているようにも感じます。
ところで、身体を表象するアバターやスキンのデザインも色々出てきていると同時に、現実の世界からバーチャルな環境に入り込むためのツールが、視覚重視のものからマルチモーダル(言語や身振り手振りなど)ないろんな知覚を帯びるようになってきています。
こうした部分で、長谷川さんが現実の世界から仮想世界に入り込むにあたって面白いと思っている、仮想世界の現実感を拡張させるようなセンサーやデバイスはありますか?
様々なセンサーやデバイスが研究者によって日夜研究・開発されていると思いますが、多くのものはプロダクト化されず、されたとしても流行り廃りの繰り返しをしていく、そのループは今後しばらく続くと思って静観しています。
むしろ昔と違うのは環境問題や高齢化、家を出られない人々など現在、未来において重要な社会問題とともにVRについて考えることなのではないかと思っています。
たとえば今VRをする人たちが部屋で着るのはどんな服かと考えると、ユニクロじゃないかなと思っていて、つまり着心地の良さが追求された部屋着になると思っているんです。
これはフェムテックの話に繋がってくるんですけど、最近の自分の服が基本的に機能的なものになっていて、現実の話としては体温の調節とか締め付けないとか、なんですけど「プレ更年期なのかな」とか「異常気象が続くな」という自分と環境の変化によって、若い頃とは違うテクノロジーが服に必要だなと思っています。
そうするとVRを使う際も動きやすい機能的な服がベースになるはず。昔のSFで、みんなが謎の白いボディスーツを着ていたのは「そういうことだったの?」みたいな気持ちになるというか(笑)。
没入感だけ優先できればいいとみんなが思うのであれば、大量のセンサーをつけて入力精度を上げるよりも、楽な服の方がいいということも十分あり得るんじゃないかということでしょうか。
そう、伸び縮みする服とか、締め付けない服とかね。みんなが年齢を重ねて、若い世代以外の「もう結婚は諦めました」みたいな人たちがVRプレーヤーの主軸になると思うのですが、彼らは結局、みんなユニクロの部屋着的なものを着ているんだろうなと。個人的にも、機能的なものになっていくといいなと思っていて。
レガシーのVR技術って、外界(たとえば室温は安定していること)と身体(健康である状態であること)の両方が「普遍的」であることを前提としていた、と思います。そこに身体の多様性を考えることであるとか、外界の環境変化を検討するに今日では至っていると。
長谷川さんのお話は、「普遍的」な状態が覆されていく前提でVRの望ましい方向を考えないと、そもそもの体験がしづらいし、没入感もないし、楽しくもないという指摘だと思いました。
そう。やはり肉体を捨てられない限りはどうにもならないと思います。
人はバーチャルな世界に逃げるか、物理世界で快適さを追求するか。いずれかに収束していく可能性はあるんでしょうかね。
そうですね。お金の問題がない人はもちろん全部できるんだけど、どちらかに絞らなきゃいけない人たちは、そうなっていくのかもしれませんね。
どんどん私たちが貧困になっていって、服を買うのが機能目的のみとなったときには、自分の肉体も性別も変えられるVRの仮想世界に行きたい、という気持ちもすごくわかりますから(笑)。
そして、どちらも手に入らない人も多く存在することを忘れてはいけないと思います。VR機器は生活に必須なものではありませんし、現在はまだ数万円します。
たとえば欧米の女子高生がTikTokやYouTubeで催眠術や妄想力を使う方法をシェアしあって、バーチャルワールドを体験していたりす るのを見ていると、テクノロジーはまずはお金のあるところに配分されてゆく。
最新テクノロジーを語るときに、いまだにネットバブルの時のテクノ楽観主義が脳深くにこびりついていることを批評しつつ、今後もさまざまな社会的夢想をしていきたいと思います。