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2023.03.10

ヒジャブからみる現代のムスリム——イスラーム化、個人化、そしてファッション(安達智史)

グローバル化が進むにつれて、宗教的なアイテムを日常的に目にする機会も増えた。一方で、そのようなアイテムは社会問題の引き金にもなっており、近年ではイランでヒジャブ着用をめぐり22歳の女性が警官によって暴行され、後に死亡した事件をきっかけに抗議運動や議論が行われている。

しかし、私たちはヒジャブを、そしてそれをつける女性たちをあまりにも知らない。そこで現代のムスリム女性のアイデンティティと社会参加について調査・研究を行う関西学院大学教授の安達智史教授に、ヒジャブをテーマに現代のムスリムについて話をうかがった。

PROFILE|プロフィール
安達智史
安達智史

関西学院大学社会学部教授。専門は、理論社会学、宗教とジェンダー、現代ムスリム女性研究。博士(文学、東北大学)。現代ムスリム女性の信仰と社会参加の関係を、おもにマレーシアとイギリスを中心に研究している。著書に、Muslim and British post-9/11: Identities in Reflexive Modernity (Trans Pacific Press, 2023)、『再帰的近代のアイデンティティ論——ポスト9・11時代におけるイギリスの移民第二世代ムスリム』(晃洋書房、2020年)『リベラル・ナショナリズムと多文化主義——イギリスの社会統合とムスリム』(2013年、勁草書房)などがある。日本社会学会奨励賞(論文の部、2011年)、同(著書の部、2021年)受賞。

(プロフィール写真はEast London Mosque近くBrick Laneの路地にて)

現代のムスリム女性の信仰と社会参加

はじめに、先生のご研究の内容を簡単に教えてください。

私は主にムスリム女性の信仰と現代社会への参加の関係について理論的・実証的に研究しています。「イスラーム研究」ではないのは、教義・歴史・制度を対象とするのではなく、現代社会の生活のなかで生きたイスラームを実践する人々(=ムスリム)に焦点を当てているからです。

とくにムスリム女性を研究対象としているのは、次の理由からです。男性ムスリムに関係する社会的規範や期待——たとえば、就労や稼ぎ手——は、西洋社会や現代社会の文化的期待と大きく変わりません。それに対して、女性ムスリムに向けられる規範や期待——たとえば、スカーフ着用、男性との空間的分離、ケア役割——には、平等化が進む現代社会の期待とより大きな隔たりが見出せます。そうしたギャップがどのようなやり方で解消されているのかという点は、学術的にも社会的にも興味深い問いです。

私は、海外のムスリム・コミュニティで多くの女性と接してきた経験から、一般的なイメージと異なり、西洋や現代社会のルールとイスラームの実践との間に本質的な対立はないと考えています。そうした認識に立ちつつ、両者の結びつきがいかに可能なのか、その「驚くべき論理」を解明し、多くの方と共有したいと思っています。

こうした関心から、長年、イギリスで生まれ育った移民第二世代ムスリムの若者を対象に研究してきました。近年では、マレーシアのムスリム女性に注目し、信仰と進学・就労・キャリアの関係について調査しています。加えて、関西の日本人ムスリム女性の改宗経験や動機について、調査をおこなったこともあります。

画像: 『再帰的近代のアイデンティティ論——ポスト9・11時代におけるイギリスの移民第二世代ムスリム』(日本社会学会で学会賞を受賞。日本社会学会で学会賞を受賞。2023年に英訳版が出版)
『再帰的近代のアイデンティティ論——ポスト9・11時代におけるイギリスの移民第二世代ムスリム』(日本社会学会で学会賞を受賞。日本社会学会で学会賞を受賞。2023年に英訳版が出版)

ヒジャブにみる近代化とイスラーム化の関係

ヒジャブについての基本的なことを教えてください。

「ヒジャブ」というと、頭や顔を隠すスカーフやベールのようなものをイメージする方も多いかもしれません。実際、ヒジャブは、ムスリム女性がおこなう被り物、とくに頭を覆うヘッドスカーフのことを指すと広く理解されています。

ただ、ヒジャブという言葉は、もともとそうした被り物を必ずしも意味していませんでした。イスラームの啓典であるクルアーンにこの言葉はでてきますが、それは「隔てるもの」や「カーテン」を意味しています。また、クルアーンには、女性に魅力的な部分を隠すよう命じる、ヒジャブ着用の根拠となる文章がありますが(24章31節)、そこではヒジャブという用語は用いられていません。

そもそもスカーフやベールは、ムハンマドに神からの啓示が下される以前に、地中海世界ですでに存在していた慣習であり、敬すべき上流階級女性とそうではない女性を識別する機能をもつものでした。クルアーン(聖典)にはムハンマドの家を訪れた男性に「彼(=ムハンマド)の妻たちに頼み事をするときは対面ではなくカーテン(ヒジャブ)の後ろから頼みなさい」という啓示が下された箇所があります(33章53節)。そこは女性のヒジャブ着用義務の根拠としてしばしば言及されますが、それはあくまでもムハンマドの妻たち——つまり、高貴な地位にある女性——にのみ課された義務と考えられています。そうした一部の人々によっておこなわれていた慣習が、イスラーム王朝の拡大のなかでより幅広い人々(主に富裕層)の間でおこなわれるようになったわけです。

重要なことは、ヒジャブ着用がムスリム女性のシンボルとして認識されているにもかかわらず、その義務が聖典において明示されていないという点です。また、隠すべき女性の性的部分とはどこなのか、それを隠す適切な方法はどのようなものか、ヒジャブ着用を求められているのは誰か――すべてのムスリム女性か、ムハンマドの妻だけか――といった点について、すべてのムスリムが議論の余地なく合意できる理解や説明は存在していないわけです。だからこそ、さまざまな地域で、異なる文化やイスラーム理解が存在し、それに応じて多様な被り物が着用されています。また、隠される部分もまちまちであり、さらにはヒジャブ着用はムスリム女性の義務ではないという意見でさえ、イスラームの伝統から主張できるわけです。

実際、歴史的にヒジャブ着用は、すべてのムスリム女性にとって当たり前ではありませんでした。19世紀以降、中東やイスラーム社会でも近代化の影響力が強まり、世俗化を通じて宗教的な儀礼の廃止やその私化が推し進められました。その過程で、多くの社会でヒジャブ着用は、とりわけ中産階級の間で「後進性」の証として理解されるようになりました。こうした宗教的なものの排除は、たとえばトルコなどで徹底されました。私が研究している地域の1つであるマレーシアでは、現在、多くのムスリム女性がヒジャブを着用しています。ですが、イスラーム化が進行する1980年代以前の写真をみると、都市部でスカーフをしている女性はいまほど多くありませんでした。

解釈とリテラシーがもたらした選択

なぜ近年、多くの女性がヒジャブを着用するようになったのでしょうか?

1970〜80年代が、一つの契機だと思います。この時代に、世界的なイスラーム化が進行しました。むろん、アヤトラ・ホメイニ師による「イラン革命」が大きな影響力をもちました。

ただし、イスラーム化を、単なる西洋的・近代的なものに対する宗教的反動とみるのは間違っています。むしろ、逆だととらえるべきです。ヒジャブ着用が増えた一つの理由は、イスラーム社会の近代化、とりわけ欧米から輸入された国民教育を通じたリテラシーや教育水準の向上にあります。近代国家の基礎として、国民教育を通じた共通言語(=国語)と近代的知識の普及があげられます。そうした教育を通じて、女性を含めた一般市民のリテラシーが向上し、またグローバル経済や知識経済の進展と相まって、高等教育へのアクセスが急速に高まりました。大学に進むようになった若者は、アラビア語に加えて、英語などで書かれたさまざまな宗教的テクストを読んだり、欧米への留学を通じて、世界中のムスリムと出会い、イスラームをめぐる先進的な理解を学ぶ機会を得ました。海外留学を通じて学んだイスラームの教えを通じて、彼女/彼らは、国内における政治体制や社会風俗が非イスラーム的だと気づき、帰国後、各々の社会で改革運動に身を投じるようになります。そうした運動が、イスラーム化をもたらすわけです。

イスラーム化は女性たちにどのような影響を与えたのでしょうか?

イスラームについて学び、知識が増えると、人々は新たな欲望を抱くことになります。つまり、「善きムスリムになりたい」という欲望です。彼女/彼らの多くは生まれたときからムスリムなわけですが、それはあまりにも当たり前のことなので、感情的なコミットメントの対象とはなりません。しかし「イスラームとは何か」「ムスリムはいかに生きるべきか」を、自らの主体的な学びを通じて知ることで、ムスリムであることに誇りをもち、「善きムスリム」となることへの欲求が生まれるわけです。現代の若者がヒジャブを被るようになったのは、そうした理由からです。

私はこのプロセスを、「知識を通じた欲望の創出」と呼んでいます。人々がヒジャブを着用するのは、単純にムスリムだからという理由でもないし、善きムスリムになるためという欲望が先にあるからではないのです。むしろ、人々は善きムスリムとなる過程でイスラームを探究し宗教的知識や知見を学ぶことで、そうした欲望を創りあげています。ヒジャブをしたいからするのではなく、その欲望を「知識」を通じて自ら創出する過程がそこにあります。現代の若者のイスラームへのコミットメントは、知識に媒介されることで、より深いものとなっているわけです。

以上の点から、近代化とイスラーム化が矛盾する現象ではなく、むしろ後者が前者を前提としていることがわかります。リテラシーや知識が欠けていると、イスラームが支配的な社会に暮らしていたとしても、その生活が本当にイスラーム的かどうかを判断するこができません。神聖なテクストへのアクセスを可能にするリテラシーや知識のおかげで、それまでなんとなく従っていた慣習の意味を知ったり、それが本当にイスラーム的なのかを反省することができるようになりました。「クルアーンは、実際にはこんなことを言っていたんだ」「ヒジャブってそういう意味があるんだ」あるいは「これまでおこなっていた慣習はイスラームと関係がないので、従わなくてもいいんだ」というように、気づくことができるのです。

このことから今日みられるイスラーム化は、近代化——グローバル化や情報化を含む——が存在しないと起こりえない現象だということがわかります。近代化の成果である、リテラシーの向上や教育機会、あるいはインターネットなどの情報化のおかげで、若者は宗教的テクストに直接触れ、また批判的に読みとくことで、自分なりの理解を発展させています。このことは、若者がイスラームと新たな、より積極的な関係を築くようになっていることを意味しています。こうした理由から、近代化とイスラーム化が対立するという認識は誤まりだといえるわけです。

画像: 女性向けのイスラム本(London Central Mosqueの書店にて)
女性向けのイスラム本(London Central Mosqueの書店にて)

信仰の個人化と権威への抵抗

イランでムスリム女性が警察に拘束され死亡した問題はどのような点が重要なのでしょうか?

まず、「抗議が公然とおこなわれている」ことそのものが重要だと思います。イランでは現在、イスラームの「教え」とされていたものに対して公然と抗議がおこなわれ、公衆の前でヒジャブを外したり、それを燃やしたりする動きがみられます。抗議する者は女性に限らず、多くの男性も含まれています。

イランは1979年の革命の後、神権政治を敷き、(限定的ではあるが)イスラーム法に則ることで、国民の市民生活にさまざまな制限を課してきました。とりわけ、服装を含め、女性の権利は抑制されています(たとえば、離婚・親権・遺産相続における男性の優位性、海外旅行における男性の許可、最高位職への制限など)。

他方、イランは、中東でも識字率が高く、また女性の進学率も男性を上回っています。高い教育は、社会的・空間的な移動の機会を高め、非イスラーム圏を含め、多様な人々、社会、文化に接することを容易にします。また、先ほども述べましたように、自身でイスラームについて学び、神が何を命じ、また命じていないのかを理解することで、活動の範囲を広げることができます。

注意すべきは、ヒジャブ着用を拒否する女性たちはイスラームを拒否しているわけではない、という点です(日本の一部の報道では、宗教と女性の権利や自由の対立として解説されていましたが)。むしろ、何が宗教や神が命じていることか、そして、それにいつ、どこで、どの程度服するのかは、個人の責任において決めるべきことだと考えられているのです。信仰とは、神と個人との関係に依存するものであり、それに他者や国家が介入することに対して、抗議をおこなっているわけです。これは、宗教の「個人化」と呼ばれる現象です。リテラシーの向上、高等教育へのアクセス、異なる背景をもつムスリムとの関わり、情報化を通じた現代文明との接触、そして非イスラーム社会の文化との交わりが、若者を中心に信仰の個人化を促進させています。あるいは、信仰の個人化は、宗教をめぐる理解や解釈の柔軟性を高めることで、イスラームが現代社会や文明のなかで生き延びるために不可欠なプロセスだといえるかもしれません。

現代の女性は、ヒジャブをしないこともまたイスラームの視点から正当化でき、また少なくとも他者に非難されるべきことではないと考えるわけです。先ほど触れましたように、ヒジャブはもともとムハンマドの妻たちが家族外の男性と接するときに求められるものであり、一般の女性の義務ではないと主張する人もいます。また、たとえヒジャブ着用が義務であったとしても、それを強要することはイスラームに反すると述べることもできるわけです(クルアーン 5章99節、10章99節)。情報化やリテラシーの向上を通じて、女性たちはイスラームの知識をより深く学び、そこから多様な解釈を得ることができます。その結果、「私(なり)のイスラーム」を確立することで、女性の権利や行動を制限しようとする伝統的権威に抵抗し、現代社会の生活とより適合的なイスラーム解釈を身につけています。言い換えるならば、イスラームに積極的に依拠することで、社会やコミュニティにおいて課されるさまざまな制限に抗し、自由を主張しているわけです。だからこそ、現代の若者はイスラームにより深いコミットメントを示すわけです。

イランやその他のイスラーム社会で生じていることは、イスラームと現代文明との対立ではなく、信仰の個人化とそれを抑圧する政治的・宗教的権威との闘いとみることができます。こうした機運や運動は、西洋やアジアのムスリム社会・コミュニティだけでなく、厳格とされる中東諸国のなかからも大きなうねりとして現れつつあります。政治的・宗教的権威は、個人化あるいはグローバル化した宗教運動の圧力のなかで、国家転覆(=革命)のリスクを抑えるために、個人とりわけ女性の権利拡大をいわば「ガス抜き」的におこなわざるを得ないわけです。

日本の改宗者ムスリム女性

先生は日本での調査も行われているかと思いますが、調査のご経験などから日本特有の文脈を感じたことはありますか?

日本のムスリムをめぐる状況は、イスラーム社会であるマレーシアや非イスラーム社会であるが宗教的コミュニティが根づいているイギリスとは大きく異なります。日本では、ムスリム・コミュニティは規模が小さく、その特徴はむしろ個々人の属性や状況に大きく依存するかもしれません。

私は、日本人ムスリムに着目し、研究をおこないました。私が興味をもったのは、一神教とのつながりが薄く、また明確な信仰をたないと考えられている日本の女性が、どういった経緯で改宗し、また日本固有の世俗的な社会空間のなかでいかなるに困難を感じているのかという点でした。

そこで発見した特徴は、日本人改宗者女性たちは、かなり戦略的なやり方で、日本という文脈においてイスラームと関わりをもっているという点でした。イスラームへのコミットメントという点では、人それぞれ大きな違いがありました。一方で、外国人ムスリムとの結婚や留学などで知り合ったムスリムとの関係が改宗動機になる場合、宗教への同一化は比較的弱いものでした。他方で、宗教について学んだり、神秘的な経験を通じて改宗を決めた人は、イスラームに対して比較的強いコミットメントを示していました。にもかかわらず、両者は「日本社会においてムスリムであること」をめぐる、さまざまな課題を共有していました。

ヒジャブを例に取ると、日本で頭に被り物をして生活することは一般的ではなく、ヒジャブ着用は女性改宗者にとって大きな問題です。実際、多くの女性は、日本のなかでヒジャブを着用することに大きな抵抗を感じていました。たとえば、ある女性は「改宗を周りに告げることができず、ヒジャブ着用を断念した」と述べています。別の女性は、職場でヒジャブをしたいと考えていましたが、「まだ会社に貢献できていないため着用を言い出せない」と答えていました。また、「ヒジャブの代わりに帽子を被り、ごまかしていた」と報告した方もいました。別のケースでは、会社務めを辞め、自営業を営む家族の会社でヒジャブを認めてもらっている人もいました。

他方で、女性たちはヒジャブをめぐり交渉や工夫を通じて主体性を発揮しています。たとえばある女性は、ヒジャブを自分の意志で着用したいと考えているにもかかわらず、「外国人の夫に着用を求められている」という説明していました。彼女は、「ヒジャブを着用したい」という気持ちが周りの人たちには理解されないと感じたため、自身の思いとは異なるが、納得されやすい理由を提示したわけです。逆に、ムスリムである夫のヒジャブ着用の要求に対して、「日本だとヒジャブをする方が周りの視線を集める」ことを理由に、それを断る女性もいました。

これらの改宗者女性たちは、宗教的なものを全面にだすべきではないという日本社会の雰囲気を感じ取っており、それに対して、いろいろな戦略を用いて対応している点が印象的でした。彼女たちが置かれている環境はイギリスやマレーシアの女性たちと大きく異なりますが、その姿は、単なる「宗教の容器」などではなく、交渉や工夫を通じて社会に参加しようとする「主体性」を感じさせるものでした。

従属性と主体性の間で——ムスリム女性のスポーツ参加とファッション

今後先生が考えていらっしゃるご研究や展望を教えてください。

私の研究関心は、ここ15年ほど一貫しています。一般にムスリム女性は、宗教的コミュニティや男性によって管理され、受動的な存在として語られる傾向にあります。実際、イスラームとは「(アッラーへの)服従」を意味し、ヒジャブを被る女性は、主体性の欠如の証として認識されています。しかし、私が出会った多くの女性は、イスラームへの深い帰依やプライドを表明する一方で、学業や仕事に打ち込み、社会において能動的市民として主体的に参与し、積極的役割を果たすことを当然視していました。私の関心は、そうしたイスラームへの帰依(=従属性)と社会への積極的参与(=主体性)という、一見すると矛盾する傾向を、わかりやすく説明することにあります。

そうした関心の延長にあるのが、今日のムスリム女性のスポーツ参加についての研究です。スポーツを対象とするのは、それがムスリムの身体と2つの点で関連するからです。一つは、スポーツは、「身体規律」に関わるものです。身体規律とは、身体の動かし方についてのルールを指しますが、そうした身体をめぐるルール化された繰り返しの運動を通じて、人々の思考や態度は影響を受けます。また、規律やルールはしばしば権威によって課される権力とも結びいています。体育やスポーツは、もともと「国民による軍隊(常備軍)」の創出を目的とした国家制度であり、近年では、(国家による医療費削減のための)健康維持の手段として位置づけられています。同様に宗教的規律は、宗教的権威に主導される多様な儀礼——たとえば、礼拝、服装、食事——を通じて、信徒に神に対する畏怖を埋め込んだり、宗教に基づく連帯を基礎づけるものです。こうした目的の異なる2つの身体規律はときに対立するかもしれません(たとえば、安全性や運動性を重視するユニフォームと神への帰依を目的としたヒジャブの対立)。

もう一つの側面が「身体表現」です。スポーツは単に身体を動かし、競争するだけでなく、観客や視聴者に向けた身体表現でもあります(たとえば、エンターテイメントとしてのスポーツ・イベント)。しかし、すでに述べましたように、ムスリム女性は、公衆(とりわけ男性)に対して、性的な部分を隠すことが求められています。こうした考えは、昨今の商業化したスポーツ・イベントの考えと対立します(たとえば、FIFAの元会長ジョセフ・ブラッターは、女子は「もっと女性らしいユニホーム」や「もっとぴちぴちのショートパンツ」を着用すべきと発言しています)。そのため、多くのイスラーム社会では女性のスポーツは禁止・制限され、大会がおこなわれる場合でも、空間的に隔離化された場所でおこなわれたりしています。

このように異なる身体規律と身体表現の狭間で、女性ムスリムたちがいかにスポーツ活動への参加を拒否・抑制しているのか、あるいは逆にスポーツ参加を信仰の面からどのように正当化しているのか、こうした点を明らかにしたいと考えています。

宗教と身につけるものの関係は今後どのようになるのでしょうか?

日本でも、すでにユニクロなどのグローバル企業においてヒジャブが販売されていますし、「着物ヒジャブ」といった日本風のヒジャブの生産もおこなわれています。世界に目を向けると、ムスリム女性向けのファッション誌は多数存在しますし、先進国のセレブリティ向けの『VOGUE』などでもヒジャブを着用した女性ムスリムが表紙を飾ったりしています。

実際、宗教アイテムのファッション化や商業化は、イスラームに限らずどの主要宗教でもみられる現象であり、イスラームだけが例外である理由はどこにもありません。それは、宗教的なものが退潮したためではなく、情報化や高学歴化により、宗教的権威やコミュニティを介さず、女性が宗教的知識や解釈に積極的に参与することで「私(なり)のイスラーム」を確立していることが理由です。つまり、宗教的ルールが課しているのはどこまでなのか、どこからが自由が与えられる(つまり、ファッションとして楽しめる)領域なのかを、教義解釈を通じて自ら設定することができるからです。こうした点から、イスラームへのコミットメント(従属性)は、自由の制限ではなく、逆にその拡張(主体性)へとつながるわけです。

私が専門とする社会学では、一見すると対立する物事が実際には協力しあっている、そうしたパラドキシカルな関係を明らかにすることに向いた学問です。今回の話に興味を持たれた方は(私の本に加え)社会学の本を手に取ってもらえれば幸いです。

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