PROFILE|プロフィール

鏡 征爾
小説家。第5回講談社BOX新人賞(『メフィスト』姉妹誌『ファウスト』後継)で初の大賞を受賞。著書に『雪の名前はカレンシリーズ』『白の断章』など。他『ユリイカ』『群像』。東京大学博士課程単位取得退学。某所研究者。非常勤講師。
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序
この世界のどこかに愛を生成する結晶がある。それは美を廃棄することによって得られる逆説的なものである。人間と機械の融合する世界においては、あらゆる物質的な崇高さは、情報テクノロジーという名の権威に屈する。Ⅰ
愛も美も、人間がつくりだすものだ。身体装飾の世界を彩るテクノロジーも、人間がつくりだすものだ。
われわれの肉体をつくりだす四種類の塩基配列ATGC、われわれの肉体がつくりだす無数のマテリアル。愛や美といった感情も、感情を動かすためにつくられたファッションも、あらゆるものは情報的な現象と看做すことができる。Ⅱ
フランスの詩人シャルル・ボードレールは、化粧を「顔面を廃棄する一つの手法である」と指摘した。眼や唇や鼻といった、われわれの顔を構成するパーツを化粧で加工することによって、身体を廃棄すると主張したのである。
生身の身体に幻滅することの多かった自分にとって、詩人の言葉は、強い説得力をもって胸に迫った。
だが、あらためて考えてみたい。果たして剥き出しの身体は、廃棄されるほど軽視されるべきものなのだろうか。生物学的にみれば、本来、裸体はわれわれの中枢神経を刺激するものでもある。本能的なレベルで、おそらく性差を問わず、われわれの視線を一点に集める作用をもっている。
ミケランジェロや中世の絵画を例に出すまでもなく、一糸纏わぬ裸体のモチーフが、歴史上繰り返し扱われてきたことからも明らかだろう。
では、生物学的な身体性と、社会的な規範とともに揺れ動く、理性的な身体感覚との間を、如何にしてファッションは調律してきたのか。或いはテクノロジーによって、調律し得るのか。この記事は会員限定です。
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