青春時代で忘れられないお店のひとつにHanjiro(ハンジロー)がある。
岩手県・盛岡市発祥のハンジローは、東京の原宿に進出してから爆発的な人気を博した古着屋だ。古着に精通していなくても、30代〜40代の世代であればその名を聞いたことはあるという人は多いだろう。
古着屋では珍しく全国展開をしていたこともあり、その認知度から初めての古着屋として訪れた人も多い。
90年代のストリートは、総じて古着が人気の時代だったが、ハンジローは少し特殊だった。
メンズのストリートファッション誌に載っているような希少価値の高いアイテムが置いてあるというよりも、買いやすい価格の変わったデザインのアイテムが多数取り揃えてあるお店だった。その理由もあり、メンズだけではなく、レディースにも人気があり、当時は『Zipper』などの青文字系雑誌によく掲載されていた。
若者に人気の古着屋と言えばハンジローと言われたぐらいに人気を博していたが、2015年に突 如閉店してしまい、私たちの前から姿を消した。
平成とともに消えてしまったハンジロー。一体、ハンジローはどのようなお店だったのか? 私たちの蜃気楼のような記憶を紐解くように、元Hanjiro商品企画部マネージャー・高山亨さんがハンジローについて語ってくれた。
PROFILE|プロフィール
高山 亨(たかやま とおる)
レトロブティックことり 古着屋 店長
元Hanjiro商品企画部マネージャー
岩手県・盛岡市発祥のハンジロー、「デプラスモン」時代と店名の由来
東京でハンジローと出会った人は、今はなき、原宿パレフランスでの記憶がある人が多いだろう。しかし、意外にもハンジローは岩手県・盛岡市がスタートだった。初期のハンジローはどのようなお店だったのだろうか?
「元々、ハンジローは光商事という会社で、主にガス屋やボーリング場を経営していました。
ハンジローの名前は、中村繁次郎さんという初代の社長の名前が由来です。古着屋として事業展開したのは、息子の中村和豊さんからになりますね。
最初は1985年に『ライフ』という名前で運営していました。次第に規模が大きくなって、1992年から『ウィズモリオカ』という自社ビルで、『ファクトリー』という名前に変更して運営していました。
主にファクトリーでは、ヨーロッパの古着やミリタリーの古着など、海外から仕入れたアイテムを展開していましたね」
その後、お店の規模はさらに大きくなり、3年後の1995年には『デプラスモン』という店名に変更。それとともに自社ビルの4階にあったファクトリーを2階に移転させ、敷地面積の全フロアを古着屋に改装した。
「デプラスモンの時代から大型店舗で販売するスタイルで運営していました。
最近では原宿でも見かけるようになりましたが、スーパーマーケットのように買い物かごを持って古着を選ぶという、古着屋の大型店舗の先駆けはハンジローだったと思います」
また古着屋として、世界初のPOSシステムを導入。全てにおいて前衛的なスタイルだった。
「いらっしゃいませ、こんにちはー! ありがとうございました! ぜひ、またお越しくださーい!」古着屋とは思えない、この気持ちのいい挨拶が記憶に残っている読者もいるだろう。
スタッフのひとりが大きな声で言うと、続けて皆が挨拶をするのはデプラスモン時代から続いているハンジローの伝統だ。
「社長とか上層部の人たちが、今までの古着屋のイメージをガラッと変えたかったのだと思います。スタッフ同士の会話も、休憩や飲み会も全部敬語でした(笑)」
そんな東北キッズにカルト的な人気があった「デプラスモン」は話題を呼び、「デプラスモン・トーキョー」として、東京の原宿に進出することになった。
そのような背景の中、「デプラスモン・トーキョー」の人気はさらに拡大。その後、いよいよ1999年の4月に『ハンジロー・セントラル』として、リュニーアルオープンすることになった。