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2024.05.15

FTN sessions02『90年代のストリートカルチャーを振り返る』現地リポート

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2024年3月27日・丸の内で、FASHION TECH NEWS主催のイベントが開催された。イベントのテーマは、「90年代のストリートカルチャーを振り返る」。
同イベントでは、「Boon」創刊時から、シーンの盛り上がりを直に見届けてきた只野孝一氏、mita sneakers クリエイティブ・ディレクター国井栄之氏、そして筆者Tajimaxの講演が行われた。最後のグループセッションでは、ゲストに総合格闘家・宇野薫氏を迎えて、90年代のストリートカルチャーを語ったこのイベントは、大いに盛り上がった。
そんな、同イベントの模様を一部レポートとして届けたい。

日本でのスニーカーブームはどのようにして訪れたのか

トップバッターは、元「Boon」編集長であり、現在は祥伝社顧問の只野孝一氏。90年代のエアマックスブームはいかにして作られたか、などについて語った。
「ジョーダン1の発売は1985年4月でした。アメリカでは当初の販売価格は65ドルでしたが、実際にはナイキが当初の目標を大きく上回る売り上げを記録したと言われています。
一方、日本ではその売り上げは芳しくなく、当時の発売価格は16,800円でした。これは、当時のジョーダンやマイケル・ジョーダンの認知度が非常に低かったためです」
1989年にNHKがNBAの試合を放送し、そこからやっと日本でもジョーダンの認知度が上がってきた。ジョーダンの認知度は高まったが、日本では爆発的なブームというのはまだ起こっていなかった。
「日本でバッシュの人気を盛り上げていったもう一つの要因はヒップホップでした。
マイケル・ジャクソンのスリラーが爆発的にヒットしたということを受けて、ヒップホップアーティストたちも独自の映像を作り始めました。有名なのは86年にリリースされたRun-D.M.C.(ラン・ディーエムシー)の『Walk This Way(ウォーク・ディス・ウェイ)』。
ここで彼らが、アディダスのスーパースターの紐を結ばずに履き、日本でも話題となりました」
その後も音楽だけではなく、映画でもスニーカーは注目のアイテムとなった。1989年に公開された、スパイク・リー監督の「Do The right Thing (ドゥ・ザ・ライト・シング) 」には、エアジョーダン4が登場して話題になった。
それ以外にも、当時アメリカで流行っていたバッシュやヒップホップスタイルが映画の中で登場し、徐々に日本にも情報が入ってくるようになる。しかし、まだ1990年頃にはヒップホップ、やNBAのバッシュを紹介する雑誌というのはまだない時代だった。

「Boon」とともに走り出す、90年代のスニーカーブーム

ジョーダン1が発売された翌年の1986年に、「Boon』が創刊された。
当初はインテリア・部屋探し中心の雑誌だったが、1988年頃からジーンズ等の特集を組むようになり、1991年にはNBAバスケットシューズの特集を組んだ。
1995年8月号で「Boon」はエアマックス95イエローを紹介したが、小さな写真での掲載に過ぎなかった。只野氏含む当時の編集部は黄色いスニーカーのコーディネートが難しいため、流行らないと考えていた。
しかし1996年初め、エアマックスの在庫がないという報告が相次いだ。その理由は、木村拓哉が週刊誌の表紙でエアマックス95の赤を着用し、大きな影響力を及ぼしたためだった。赤が完売し、次にイエローも品薄となり、空前のエアマックスブームが到来した。
最後に90年代のスニーカーブームの収束について、只野氏はこう語った。
「木村拓哉さんから火がついたエアマックスブームでしたが、残念ながらエアマックス狩りやエアマックス詐欺といった、様々な犯罪に発展していきました。
急激に駆け上がっていった90年代のスニーカーブームは、96年、97年にかけて収束しましたが、私たちはそのスニーカーブームを追いかけながら、非常に熱い時代を過ごしたと考えております」

日本独自の文化であるコラボレーションの始まり

続いての登壇者は、東京・上野から独自のスニーカースタイルを発信する、mita sneakers ディレクター・国井栄之氏の講演。国井氏は、スニーカーとコラボレーションについての関係性を軽やかに語ってくれた。
「90年代、『Boon』などで『別注』が紹介され、日本でも同様の動きが広まりました。96年は業界内でのスニーカーブームピーク時、メーカーや小売りも新しいことをやりたい!という雰囲気に徐々になってきました。
先輩世代がインポート品を持ってくるなか、僕ら世代はメーカーに素材、カラー変更などを直接提案し、アグレッシブなメーカー関係者の賛同を得て、コラボなどが始まったんです」
日本におけるコラボレーションは、1999年に発売された「シティアタック」に注目が集まった。スニーカーカルチャーを象徴するシティアタックの始まりついて国井氏はこう語る。
「シティアタックは、アメリカやヨーロッパでジョーダンなどのモデルが都市限定で販売されていたのを、その日本版として展開したものになります。当時、スポーツブランドは基本的にスポーツシューズを作り、常に前を向いてイノベーティブな製品を発信してきたので、復刻という概念はあまりありませんでした。
しかし、日本でのヴィンテージ人気やリクエストを受けて、イレギュラーな生産でそのモデルを復刻し、都市限定で販売されたのがシティアタックの始まりだと考えられています」

シティアタックを皮切りに発展したコラボレーション文化

mita sneakersといえば、やはりニューバランスとのコラボは欠かせない。
「当時、本当にニューバランスが好きな方は、メイドインUSA、UKのニューバランスを神格化していて、アジア製のニューバランスは本物とは見なされていませんでした。
私たちショップスタッフも同様で、当時原宿で一番勢いのあった『Hectic』というブランドの人々も、ニューバランスの580を履いていました。
そんな雰囲気のなか、ニューバランス側からリクエストが来て、急きょ今で言うのような『コラボレーション』ができる話となりました。当時はコラボという概念すらなかったので、580といえば…ということでHecticの方々に相談し、そこからプロジェクトがスタートしました」
現在もmita sneakersでは、ニューバランスだけではなく、さまざまなブランドやショップとのコラボレーションが展開されている。
国井氏は「作り手が一番楽しむこと」がコラボの本質だと語る。時代によって役割は変わるが、作り手のワクワク感が大切で、本来の使命はメーカーの新作を訴求することだと語ってくれた。

現在のストリートカルチャー

筆者のトークテーマは、「90年代のストリートカルチャーは現在ではどのように変化してきたのか」。
90年代のストリートファッションは、令和が近づくにつれて「流行回帰」として度々メディアに取り上げられるようになった。
90年代ファッションは次第に00年代の要素も含まれ、新たに「Y2K」というジャンルが生まれた。2020年以降は、復刻モデルのリリースラッシュや20周年記念イベントが相次ぎ、ファッションだけでなく平成カルチャー自体がブームとなった。
一時的なブームの雰囲気を乗り越え、最近ではメンズ・レディースを問わず「新しいジャンル」として90年代のストリートカルチャーが確立され、その人気とともに席巻するようになったことなどを解説した。
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