PROFILE|プロフィール

安齋詩歩子
1990年生まれ 横浜国立大学非常勤教員、一般企業等での就労を経て、現在東京工業大学博士後期課程(伊藤亜紗研究室)に在籍。過去に、精神医学とファッションをテーマに、衣服と身体の親密性を研究するとともに、ファッションに関する著作の翻訳や論文等の文章を執筆し国内外の学会で発表を行う。現在は「衣服における触覚性」と「ケアとしての衣服」の観点から、オルタナティヴなファッション研究の可能性を模索している。
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「ファッション」は視覚的な権力に支配されている。実際、テレビが普及し始めた1960年代には、美しさへの羨望から「拒食症」の症例が増え始めたといわれている[1]。と同時に、「ファッション」という「システム」は近代以降に確立したものであるが、近代という時代は産業の発達・工業化によってたくさんの工場や機械、蒸気機関などの移動手段や印刷などの通信手段等のテクノロジーが進化し、それらが次々と人々の生活を侵食していった。
近代はビオス(社会的な生)とゾーエー(生物的な生)が渾然一体となった時代だと、ハンナ・アーレントは言った。私たちの生は権力によってすべての活動を掌握されるのではなく、他者と世界を共有する「個」という代替不可能な生(ビオス)と、生命を維持するための生(ゾーエー)を、同時に生きている。加えて、ジャン=リュック・ナンシーによると私たちは「技術」によって管理されており、それを彼は「エコテクニー(技術-生物圏)」という概念で説明している。一切はエコテクニーの中に――主権さえも――含まれ、私たちの生は目的もなく進んでいるという 。
(……)目的もモデルもない「同一性(アイデンティティ)」の急増としての世界性が問題であり――おそらくまさに、未聞の諸同一性の新たな地平のテクネーとしての「技術」が問題なのである。[2]
主権なきエコテクニーは、「ファッション」がそのまま体現している局面でもある。「ファッション」が作り出したシステムは、流行が消費を促すことによって成り立っており、それを予言したかのように「『〔未来派〕男性服宣言』には実際、『衣服に耐久性がなければテキスタイル産業を促進することもできる』という主張がみられる」[3]という。現代を生きる私たちは、このシステムの中で近代的なテクノロジーに生まれたときから組み込まれており、技術を促進し、それを刷新し続けていくという目も眩む目まぐるしさこそが、「ファッション」の本質なのかもしれない。