2021.06.11

蘆田裕史「言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ」

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Fashion Tech Newsでは多様な領域からゲスト監修者をお招きし、ファッションやテクノロジーの未来について考えるための領域横断的な特集企画をお届けします。第2弾はファッション研究者/京都精華大学デザイン学部准教授の蘆田裕史氏を監修者に迎え、「言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ」をテーマに5つの記事をお届けします。

今年2月に『言葉と衣服』を刊行された蘆田氏とともに、現代のファッションにおける言葉とイメージの経験について、さらにファッションを取り巻くデータの性質、そしてそれらがファッションの解釈に与えるか/与え得るかを、実践・研究・創造からの視点も交えながら考えていきます。

PROFILE|プロフィール
蘆田裕史

1978年生。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位取得退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、現在、京都精華大学デザイン学部准教授/副学長。専門はファッション論。著書に『言葉と衣服』(アダチプレス、2021年)。訳書にアニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク編『ファッションと哲学』(監訳、フィルムアート社、2018年)などがある。ファッションの批評誌『vanitas』(アダチプレス)編集委員、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。

「言葉とイメージ」からファッションを考える

ロジカルにファッションを考えるために

僕の基本的な問題意識として、ファッションをどれだけロジカルに捉えられるかということがあります。ファッションを学問として成立させるには、ロジカルに考えなければいけません。Fashion Tech Newsの大きなテーマのひとつであるテクノロジーは工学的なものなので、問題意識を共有できるのかなと思っています。ファッション業界のなかには、ファッションを感覚的なものと捉えている方もいるかもしれませんが、たとえば教育のことを考えてみると、感覚的なものを教育するのは難しいですよね。

学校教育だけでなく、会社で先輩が後輩を、上司が部下を育てることを考えても同じです。教えるためには言語化が必要ですし、「私はこれがかわいいと思う」と言っても、そこに論理がなければ相手に伝わりません。データサイエンスはこれまで感覚的に捉えられてきたことに論理や根拠を与えていくものだと思っています。そういった意味では、Fashion Tech Newsで扱っているテクノロジーやデータサイエンスの問題は、教育や文化につながる話でもあります。

今回のテーマ「言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ」は、テクノロジーだけに関わる話であるというよりも、ファッションを文化として考える時にも必要なのではないかと思っています。

言葉とイメージの相補性

言葉とイメージは相補的なものだと思っています。言葉ですべてを説明することもできませんし、イメージですべてを伝えることもできません。言葉とイメージにはそれぞれ得意な領域がありますよね。たとえば、今僕が着ているジャケットにボタンが3つついていることについて、どんなボタンが、ジャケットのどこに、どのような間隔でついているか、言葉で説明するのは難しい。この場合、絵で描いたり写真を見せた方が伝わりやすいですよね。

一方、視覚以外を働かせるような事象、たとえば布が柔らかいということを伝えようと思ったときに、イメージによるコミュニケーションは難しいですよね。言葉であれば「柔らかい」の一言で終わります。視覚を伴わないもの、抽象的・概念的な事柄の説明は言葉の方が得意です。味覚や聴覚に関わることもそうですよね。味を説明するのには視覚的なイメージを使うよりも、言葉で甘みや酸味を説明する方が確実に伝わりやすい。言葉とイメージは対立するというよりも、相補的なものです。

ファッションをめぐる言葉

「ファッション」と「モード」

大学院で修士論文を書くときに僕が直面した問題は、「ファッション」と「モード」はどう違うのか、ということです。たとえば日本におけるファッションの研究を牽引してきた鷲田清一さんの著作やKCI(京都服飾文化研究財団)の展覧会で、「モード」「ファッション」というふたつの言葉がよく出てくるのですが、定義がきちんとされていないんじゃないか、と感じていました。コミュニケーションにおいては、使われている言葉の定義が共有されていなければ、話が通じないですよね。

そのことは論文でも同様です。書き手と読み手がコミュニケーションを取ることができなければ、論文の内容が伝わりません。ですので、まず言葉の定義をしないといけないとずっと考えていたのですが、修士課程のときにはうまく定義することができませんでした。そう考えると、20年くらい前からずっと言葉の定義にとらわれ続けているのだと思います。

「ファッション」と「ファッションデザイン」

「ファッション」と「ファッションデザイン」というふたつの大きな言葉がありますよね。これらはしばしば混同されるのですが、デザイナーが作った服を「ファッション」と呼ぶのは適切ではないように思います。「ファッション」には流行という側面がありますが、デザイナーが作ったものが必ずしも流行を生み出すわけではありません。
ファッションの展覧会などでは、日本の1990年代を象徴する作品としてよくコムデギャルソンのこぶドレスが取り上げられたりします。しかし、こぶドレスが大きく流行したかというと、そんなことないですよね。それよりも、女子高生のルーズソックスの方が確実に流行の程度としては大きい。 ファッションを流行という側面で見るのであれば、こぶドレスよりルーズソックスの方が重要ということになります。一方で、「ファッションデザイン」を流行したアイテムや着こなしとは異なる、デザイナーやブランドによって計画された商品として見るのであれば、こぶドレスに意義を見出すことも可能かもしれません。

ルーズソックスは、もしかしたら仕掛人がいたのかもしれないですが、誰かが計画(デザイン)をして作られた流行ではないので、「ファッションデザイン」ではありません。「ファッション」と「ファッションデザイン」をきちんと分けることで、さまざまなことが整理されていくのではないかなと思います。それを試みたのが『言葉と衣服』という本です。

定義の曖昧さと対峙するために

「ファッション」という言葉の曖昧さは、ファッションが研究対象として捉えられてこなかったことに起因します。研究対象として見る、学術的な対象として見るということを経ないと、厳密な定義は難しい。日常生活では言葉の定義なんてきちんとしなくてもコミュニケーションが成立し(ているように見え)ますよね。むしろしない方がスムーズかもしれません。たとえば僕はデザインという言葉を「見た目」の意味で使うのは適切ではないと主張しますが、日常会話でそんなことを言ってしまうと、逆にコミュニケーションが成立しなくなる。日常的には、差異やディテールを無視しないと生活が成り立たなくなります。

多分これは哲学者のアンリ・ベルクソンが芸術の役割について語っていることと似たような話だと思います。ベルクソンによると、僕たちが生きている日常はヴェールがかけられていて、芸術家はそれを取り去ってくれる人だとされています。たとえば、交通整理のための信号は青・赤・黄の三色とされていますが、ひとつひとつの信号機の色って微妙に色が違ったりしますよね。この青信号はあっちの青信号と色がちがうけれども、本当に進んでいいのだろうか? とか考え出すと、信号を渡ることができなくなってしまう。僕たちはそういった差異を無視しないと、生活を送ることができない。そういう意味で、僕たちの日常の世界はヴェールに覆われているとベルクソンは言うのです。

ベルクソンによれば、芸術家の役割とは、そのヴェールを取ることです。学術的な研究もこれと似たような役割を持っていると思います。僕たちは普段、「ファッション」や「デザイン」という言葉を適当に使っていますが、実はその言葉には、語源があり、歴史的に意味が変遷し、場合によっては新しい意味が付与されたりもする。論文や批評はそうした議論を行います。ファッションはそのプロセスを経ておらず、日常会話での用法しかないため、曖昧にしか使われてこなかったことが、問題のひとつです。

<p><span style="color:#000000">「ファッション」という言葉の曖昧さは、ファッションが研究対象として捉えられてこなかったことに起因します。研究対象として見る、学術的な対象として見るということを経ないと、厳密な定義は難しい。日常生活では言葉の定義なんてきちんとしなくてもコミュニケーションが成立し(ているように見え)ますよね。むしろしない方がスムーズかもしれません。たとえば僕はデザインという言葉を「見た目」の意味で使うのは適切ではないと主張しますが、日常会話でそんなことを言ってしまうと、逆にコミュニケーションが成立しなくなる。日常的には、差異やディテールを無視しないと生活が成り立たなくなります。</span><br><br><span style="color:#000000">多分これは哲学者のアンリ・ベルクソンが芸術の役割について語っていることと似たような話だと思います。ベルクソンによると、僕たちが生きている日常はヴェールがかけられていて、芸術家はそれを取り去ってくれる人だとされています。たとえば、交通整理のための信号は青・赤・黄の三色とされていますが、ひとつひとつの信号機の色って微妙に色が違ったりしますよね。この青信号はあっちの青信号と色がちがうけれども、本当に進んでいいのだろうか? とか考え出すと、信号を渡ることができなくなってしまう。僕たちはそういった差異を無視しないと、生活を送ることができない。そういう意味で、僕たちの日常の世界はヴェールに覆われているとベルクソンは言うのです。</span><br><br><span style="color:#000000">ベルクソンによれば、芸術家の役割とは、そのヴェールを取ることです。学術的な研究もこれと似たような役割を持っていると思います。僕たちは普段、「ファッション」や「デザイン」という言葉を適当に使っていますが、実はその言葉には、語源があり、歴史的に意味が変遷し、場合によっては新しい意味が付与されたりもする。論文や批評はそうした議論を行います。ファッションはそのプロセスを経ておらず、日常会話での用法しかないため、曖昧にしか使われてこなかったことが、問題のひとつです。</span></p>

イメージによる情報伝達

イメージの器となるファッション

ファッションと他のジャンルの違いとして、作品の情報量が少ない、別の言い方をすればニュートラルであるということが言えます。たとえば、同じ服であっても、それをどのようなモデルが着るのか、どのような写真家がそれを撮るのかによって、生まれる印象はまったく変わってきます。ファインアートのことを考えてみると、ピカソ展のカタログをつくるときに、写真家によって作品の印象が変わるなんてことは基本的にはあってはならないですよね。

でもファッションの場合は、作品自体にさまざまな意味や情報などが乗せられる、ある意味で器のようなものだと言えます。情報を付加していくことで、新しいイメージが作られて、そして服自体よりもそのイメージが流通していく。そういった意味では、それがファッションのひとつの性質なのかなと思います。

イメージへの偏重から変化していく可能性

言葉とイメージの関係は相補的なものだと思っているので、どちらかがなくなることはないと思います。でも言葉とイメージを比較しとき、Instagramの例からも分かるように、インスタントなのは視覚的なイメージの方ですよね。今はコミュニケーションにかける時間が短くなってきているので、おそらくイメージの方に寄っている。でも、結局時代の流れって行ったり来たりすると思うんですよ。

おそらく人間は多分本質的に飽きっぽいと思うんです。つねに同じもので満足することができない。だからこそ流行が移り変わり、スカートの丈が短くなったり長くなったりします。今はイメージが偏重されているかもしれないけれど、それにみんなが飽きてしまったら、多分また言葉の方に目を向けるのではないでしょうか。

もしかしたら、YouTuberなどは、Instagram的なインスタントなものに対する反動と言えるかもしれません。Youtuberって、一瞬のイメージだけだと足りない何かを言葉で補うことをしている人と見ることができるかもしれない、と思っています。

データによる画一化と差異化

合理化と画一化

イメージと言葉に限らず、今後の流れとしてひとまずファッションは画一化する方向に向かっていくのかなと思います。時代の流れは行ったり来たりと言いましたけども、もしかしたらその振幅が少なくなって、収束していくような感じになっているのかもしれません。今の時代、極端なもの、ラディカルなものが避けられがちなので、そういう意味ではみんなが同じようなのものになっていくのかなとは思っています。

僕はデータサイエンスについてまったく不勉強なのですが、合理化というのは画一化にもつながりますよね。そのなかで、データサイエンスから生まれる創造性のようなものがあるとすれば、それはどのように可能なのか、ということも気になっています。ワークライフバランスという言葉が人口に膾炙しましたが、以前は身体を壊してまでも究極に美味しいパンを作ることがある種の美徳のように思われていたりもしましたが、今の時代の流れを見ると、そこそこ美味しいパンをそれなりの手間で作ることの方が幸せだと考えられるようになってきているように思います。

一部の富裕層や好事家をのぞけば、食べ物もファッションも画一化していくと思いますし、そのためにはデータがうまく活用されていくはずです。合理化か、究極の追求か、どちらが幸せなのかは人によりますが、後者を個人の選択として容認するのか、社会の要請としてそれを認めない方がよいのか、これから考えていかないといけません。

高級品が前提とする格差の社会構造

たとえば、伝統産業でも着物に使われる絹織物などは、もともと権力者や富裕層のための高級品ですよね。それはソースティン・ヴェブレンを参照して言えば、自分が富を持っていることを見せびらかすために消費するということです。つまり、みんなが平等になって格差がなくなると、このような高級品の受容者がいなくなってしまうんですよね。時間とお金をかけて上質なものをつくるということは、搾取にもとづく——それ以外の手段があればよいのですが——格差の創出を是とする社会構造を続けることにつながるようにも思われます。

そう考えると、ラディカルな、あるいは究極のものがなくなっていく運命にあるのではないか。そんなことを考えています。

テクノロジーで実現する新たな差異化の方策

画一化とは言いましたが、他人と同じでは満足できない人もたくさんいますよね。ですので、搾取にもとづく格差の構造とは異なる差異化の方法として、テクノロジーの活用もありえると思います。データによって画一化が促進されるのだとすれば、それを逆手にとって、あえて中心から離れることもできるかもしれない。

自分ひとりの頭でどうやったら人と違うものが作れるかを考えなくても、データの分析によって大きな流れを把握し、その流れから1歩外れることは、昔よりやりやすくなってると思うんです。一例をあげると、HATRAとSynfluxのコラボレーションで作られているグラフィックは今までの作り方とは違うところから生まれて来ている感じがします。こういったやり方は、インディペンデントなデザイナーが自分のオリジナリティを出すためのひとつの方法なのかなと思って見ています。

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言葉・イメージ・データによるファッションの創造

この特集の構成、どのような声を集めたのか

まず、言葉で表現活動を行っている人として、ファッションに興味のある小説家の考えを聞いてみたいと思い、朝吹真理子さんに取材をお願いしました。基本的に小説家は言語のみで世界のすべてを描写しますよね。ファッションデザイナーやスタイリストであれば、服を視覚的に——場合によっては触覚的に——捉えることが多いと思いますが、言語のみに依拠する小説家が、服というものをどのように捉えているのか、またどのように記述しているのかをお聞きしたいと思いました。

ファッションディレクターの山口壮大さんに取材をお願いしたのは、スタイリストと商品企画者——デザイナーと言っていいのかどうかわかりませんが、一旦デザイナーと呼びます——としての側面というふたつの側面を持っているからです。スタイリストには、感覚的な人もいれば論理的な人もいると思いますが、いずれにせよ服装を頭のなかで組み立てていると思います。このアイテムとあのアイテムを組み合わせたらどうなるか、このディティールを隠す/見せるの違いでどうなるかと言ったことを、頭のなかでイメージとして組み立てていくのがスタイリストだという印象を持っています。つまり既存のものの組み合わせです。一方、デザイナーはまだ見ぬもののイメージを作り上げていく作業をしていきますよね。スタイリストやデザイナーが服をどのように見ているのか、両者の仕事にはどのような差異があるのかなどを聞けたらと思っています。

ZOZO研究所のメンバーには、ファッションをデータとして捉えるとどうなるのかを議論してみたいです。そこから発展して、バーチャルファッションにも関連する話が聞けるかな、と思っています。服の画像解析をするうえでも、 服を要素に分解していく必要があると思います。「WEAR」のようなアプリでは、その要素がタグという形で現れてきますが、服を構成する要素を情報系の研究者がどのように考えているのか、僕自身あまり想像ができていないので、色々とお話を聴いてみたいです。

三浦哲哉さんは映画研究者・映画批評家ですが、今回話を聞きたいと思っているのはむしろ近著の『LAフード・ダイアリー』にもある料理批評——と言ってよいのかわかりませんが——の側面です。料理に批評があるのかないのか僕にはわかりませんが、料理や味の分析というのは、ファッションと共通することがあるような気がしています。ファッションは、受け手にとってはかわいい/かわいくない、かっこいい/ださいという感覚的な判断が主ですが、料理も同じだと思います。つまり、おいしい/おいしくないという基準です(もちろんそれだけではないことは承知しています)。一方で、作り手は料理をロジカルに作りますよね。料理人は理由のないこと、無駄なことはしないと思うのです。そこがファッションと料理が違うところです。ファッションの場合、作り手が論理的に自分の制作を説明することってあんまりないと思うんです。そうした点で料理から学ぶことが色々あるのかな、と思っています。

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Photo by reckhahn

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