2022.08.22

「VTuberの哲学」序論――多様化するVTuberと「身体」としてのアバター(山野弘樹)

「VTuberとは、一体どのような存在なのか?」

近年、ますます注目を集めるバーチャルYouTuber(VTuber)。その存在は今やインターネットの世界にとどまらず、様々な企業とのコラボやメディア展開などを通して、私たちの生活に浸透しつつある。

そんなVTuberを哲学的に捉え、「VTuberの哲学」という新たな学問分野を立ち上げようとしているのが、東京大学の山野弘樹さんだ。果たして、VTuberを哲学するとはどういうことなのか、そこから見える世界とは一体どのようなものなのか。

今回、山野さん自身の“VTuber体験”も色濃く反映された「『VTuberの哲学』序論」をお届けする。

PROFILE|プロフィール
山野弘樹(やまの ひろき)
山野弘樹(やまの ひろき)

1994年、東京都生まれ。2017年、上智大学文学部史学科卒業。2019年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(比較文学比較文化)修士課程修了。同年より日本学術振興会特別研究員DC1(2022年3月にて任期終了)。現在、同大学院博士課程。専門は哲学(特にポール・リクールの思想)。2022年より「VTuberの哲学」の研究を始める。主著に『独学の思考法』(講談社現代新書、2022年)。2019年、日本哲学会優秀論文賞受賞。2021年、日仏哲学会若手研究者奨励賞受賞。「哲学の知と実社会を繋ぐ」という理念のもと、哲学の〈意義〉と〈魅力〉を世に幅広く発信することをライフワークとしている。
(Twitter:https://twitter.com/Ricoeur1913

(プロフィール写真:嶋田礼奈)

白銀ノエルさんの故郷、大分県の旅館の一室で、私は歴史的な瞬間を目撃していた。それは兎田ぺこらさんのチャンネル登録者数が200万人を突破する瞬間であった。いつも空気を盛り上げてくれるムードメーカーで、誰よりも明るく振る舞っている兎田ぺこらさんがリスナーに「本音」を吐露する瞬間に、私は居合わせていた。

本稿の目的は、「VTuberの哲学」という最新の学術領域について解説を行うことである。「VTuber」のことをよく知らない方でも読めるように書いているので、「哲学研究」そのものに興味のある方は、ぜひ本稿を読んでみていただきたい。

本稿は、次の三つのトピックから構成されている。

(1)なぜVTuberを哲学的に研究しようと思ったのか?
(2)「VTuberの哲学」とは何か?
(3)VTuberにとって「身体」とは何か?

それぞれ、一つずつ説明をしていきたい。

(1)なぜVTuberを哲学的に研究しようと思ったのか?

「大分県出身の有名人を知っていますか?」——旅館の一室でそのパンフレットの文章を読んだとき、真っ先に私の頭に浮かんだのは、白銀ノエルさんであった。

むしろ、私にとってはその人名以外は思い浮かばなかった(ユースケ・サンタマリアさんと深津絵里さんが大分県出身なのは大変驚いた)。というのも、私に「VTuber文化」の魅力を最初に教えてくれたのは、この銀髪翠眼の女性に他ならなかったからである。

去年の5月27日、何気なくYouTubeを開いた私にお勧めされたのは、兎田ぺこらさんのチャンネルのライブ配信であった。よく見ると、そこには「『ドラゴンクエスト』35周年記念特番公式ミラー配信」と書いてあった。大学院に入りたてのとき、『ドラゴンクエストXI』をクリアしていた私は、この『ドラゴンクエスト』の名前に惹かれてそのライブ配信をクリックした。

そこにいたのが二人のVTuber、兎田ぺこらさんと白銀ノエルさんであった。「バーチャルYouTuber」という単語自体は、キズナアイさんの動画でうっすらと知っていたが、それ以上のことは何も分からず、彼女たちの名前もそこで初めて見かけたのであった。

なんとなく、「バーチャルYouTuber」という存在に対しては、「新しい二次元キャラクター」のようなイメージを持っていた。キズナアイさんの完成された振る舞いは、少なくとも私にはアニメの延長線上にあるキャラクターの姿のように見えていた。

だが、兎田ぺこらさんのチャンネルでは、「好きなドラクエシリーズ」の話題を生き生きと話す白銀ノエルさんの姿が映っていた。そして彼女は、「自分が一番大好きなのは『ドラゴンクエストIV』」だと答えていた。

実は、私も『ドラゴンクエストIV』には大変強い思い入れがあった。私が全クリしている数少ないドラクエシリーズだったし、何より私が愛してやまない『トルネコの大冒険3』の主人公の一人、トルネコが登場する作品だったからである(私はもう一人の主人公ばかり操作していたが)。

わかるわかる、『ドラクエIV』って良いですよね——つい私は、そんな風に心の中で呟いていた。

怒涛の新作発表がなされた記念特番は無事に終了し、私は余韻に浸りながら、先ほどまでの時間を思い出していた。

——あの銀髪の女性は、なんていう名前の人だっけ。

ふと気になった私は、そのまま兎田ぺこらさんの動画のタイトルを見て、その名前をYouTubeで検索した。白銀ノエルさんのチャンネルはすぐにヒットした。

「【Million間近!】100万人まで全力で歌う🎶 とまらない団長🕺🌹【白銀ノエル/ホロライブ】」がトップの動画として固定されていた。

この方は、歌も歌えるのか——

そう思い、私はその動画をクリックした。

そこには、あまりにも自由奔放なスタイルで歌を歌い上げる白銀ノエルさんが映っていた――

これは、一体——

思えば、それが私が初めて観た白銀ノエルさんの動画であった。

それから、私が「VTuber文化」という広大な世界に足を踏み入れるまで数日もかからなかった。白銀ノエルさんがホロライブ3期生であることから、まずは3期生の「切り抜き動画」をたくさん観て、大いに元気を貰えた。そして、彼女たちは企画ものをやるだけでなく、ゲーム実況をしたり、ライブイベントをしたりするということも知った。

私は特に『バイオハザード』シリーズと『ゼルダの伝説』シリーズが好きだったので、「一体どのようなVTuberの方がゲーム実況をされているのか、大変気になった。そして「ムジュラの仮面 VTuber」と検索したときに、トップの方に表示されたのが、「にじさんじ」の夜見れなさんであった。

私にとって白銀ノエルさんと夜見れなさんの存在は大きく、私は白銀ノエルさんからホロライブ3期生、ひいては「ホロライブ」全体の興味を持つことができたし、私は夜見れなさんからSMC組、ひいては「にじさんじ」全体の興味を持つことができた(その後しばらく経って、「ぽこピー」さん、「おめシス」さん、「深層組」といった方々を知ることになる)。

中学時代からニコニコ動画で親しんできた「歌ってみた」文化と「ゲーム実況」文化。その二つが、私をこの「VTuber文化」という大海原へと引き込んだのだ。

さて、VTuberの動画を観るのが日課になり、それを新しいライフスタイルとして家族も受け入れてくれるようになった頃、私の脳裏にある一つの「問い」が浮かぶようになった。

それは、「私が鑑賞しているVTuberとは、一体どのような存在なのだろうか?」という問いである。

典型的なVTuberは、アニメのキャラクターのような姿をしている。だが、アニメではない。むしろ日頃の発言内容からして、そこからは有り余る「リアルさのようなもの」を感じ取ることができる(私が白銀ノエルさんに最初に興味を抱いたのも、「ドラクエIVが好き」というコメントに共感を抱いたからだ)。

だが、典型的なVTuberは、私たちとは少し違う存在である。私たちとは異なる身体を有しているし、しばしばフィクショナルとしか言いようのないプロフィールが付与されている。そうなのであれば、典型的なVTuberという存在は、「私たちと同じ人間であるようにも見えるし、それとは少し違うようにも見える」というのがここでの回答になってしまう。

だが、すでに私の中には、「VTuber」という存在が、アニメの登場人物とも決定的に違うし、現実のYouTuberとも決定的に違うという明確な直観があった。だが、もしそうなのであれば、「VTuber」とは一体何なのだろう?  一体「何」を、私はこんなにも熱心に鑑賞しているのだろう? ……私の心の中に、いくつもの「問い」が降り積もっていった。

これらの問いを一つにまとめるならば、おそらく次のようになる。すなわち、「これほどまでに感情を動かされるコンテンツを目にしたとき、私の中で一体何が起こったのだろうか?」という問いである。「その姿」の「その声」を聴いたとき、私の中で何かが起こった。それが何故引き起こされたのか分からないが、とにかく「それ」は起こったのである。

私は、私の内部でこうした出来事を引き起こした存在者についても理解したかったし、それによって引き起こされた事象それ自体についても理解したかった。畢竟にして、私は「私」を理解したかったのである。

「VTuber」という存在を理解しようとすること、それは私にとって、「自己自身」を理解することに他ならなかった。ここから私は、自己の精神性と、バーチャルな存在の創造性を思索する旅へと一歩踏み出すことになる。

(2)「VTuberの哲学」とは何か?

「VTuberとは何か?」——この問いを抱いた私にとって、まず最初に手掛かりになりそうだったのは、2018年7月号『ユリイカ』の「特集*バーチャルYouTuber」であった。というより、当時、他にVTuberについてまとまった記述のある文献がなかったのである。書籍を取り寄せた私は、早速自室で『ユリイカ』のそれぞれの記事を読んでいった。

そのクオリティは「玉石混交」としか言えないようなものであったが、それでも大きな情報を手に入れることができた。それは、「VTuber」という存在に対して、各々別様のイメージを抱いている、ということである。もちろん同じ方向性のイメージを持っている論者もいるのだが、それでも「VTuberとは?」という原理的な問題に対して、様々な回答のアプローチがあるらしいということを知った。

そして、こうした情報を得た私がまず最初に試みたこと、それは、いくつかのVTuber論の方向性をまとめ上げ、それぞれの立場の妥当性を比較・検討するという作業であった。さらに私はそこから、それらの立場によってより良く理解することができるVTuberのタイプを類別することを試みた。

詳細については2022年の8月末刊行の拙論(「バーチャルYouTuberとは誰を指し示すのか」)を読んでいただくことにして、本稿においては、それぞれのVTuberのタイプの概略的な説明を行っていくことにしたい(とはいえ、本稿においては、拙論では説明されていない議論も多数収録されている)。

まずは出発点として、次の二つのVTuberのタイプを大別することができる。

(A)配信者タイプ
(B)虚構的存在者タイプ

「配信者タイプ」とは、「VTuber」と「配信者」(俗に「中の人」と呼ばれる存在)が同一の存在として提示されているタイプのVTuberである。

このタイプの具体例としては人気YouTuberでありVTuber化を果たした「HIKAKIN」や、ゲーム実況者と合わせてVTuberとしても活動している「ガッチマン」を挙げることができる。

そして「虚構的存在者タイプ」とは、「配信者」によって、ある特定の「虚構世界」(例えば「吾輩は猫である。名前はまだ無い……」といった一連の「虚構内的言説」によって構成された想像上の世界)に位置付けられた作中人物として「VTuber」が演じられるタイプのVTuberである。

このタイプの具体例としては、『ウマ娘』の「ゴールドシップ」や『KOF』シリーズの「麻宮アテナ」を挙げることができる。

さて、このように二つのタイプを区別したが、これらのタイプは、さらにもう二つのタイプに分類することができる。

(A-1)顕在的配信者タイプ
(A-2)潜在的配信者タイプ

(B-1)明示型虚構的存在者タイプ
(B-2)非明示型虚構的存在者タイプ

まず「顕在的配信者タイプ」について。これは「VTuber」として活動していることを明示する「配信者」が、日常生活の中で発揮されているアイデンティティの延長線上に位置づけられる活動を行っているタイプのVTuberである。

先ほど例に挙がった「HIKAKIN」や「ガッチマン」は、このタイプに分類されるだろう。

次に「潜在的配信者タイプ」について。これは「VTuber」として活動していることを明示する「配信者」が、日常生活の中では隠蔽・抑圧されているアイデンティティを実現するために活動を行っているタイプのVTuberである。

このタイプの具体例としては、「バーチャル美少女ねむ」や「蘭茶みすみ」を挙げることができる。

そして「明示型虚構的存在者タイプ」について。これは原典として「虚構世界」が制作されており、そうした「虚構世界」の権威性が裏切られない形で演技されることが求められるタイプのVTuberである。

先ほど例に挙がった『ウマ娘』の「ゴールドシップ」や『KOF』シリーズの「麻宮アテナ」は、このタイプに分類されるだろう(「裏切られることもある」という反論はここでは当たらない。なぜなら、「裏切られている/いない」という評価基準が存在していること自体がここでのポイントだからである)。

最後に「非明示型虚構的存在者タイプ」について。これは原典としての 「虚構世界」の権威性に従って演技されているのか否か、鑑賞者から判断し難いタイプのVTuberである。

このタイプの具体例としては、「鳩羽つぐ」を挙げることができる。

私たちは「鳩羽つぐ」をまるで虚構的な存在者であるかのように鑑賞することができるが、彼女が一体どのような虚構世界に暮らしているのか、そして「鳩羽つぐ」という存在を演じていることに当の演技者が成功しているのか否かを、鑑賞者は判別することができないのである(ゲーム実況をする「ゴールドシップ」でさえ、鑑賞者は「ゴールドシップらしい振る舞いである / でない」といった判断を行うことができる。他方、「鳩羽つぐ」に対してこうした判断を行うことはできない)。

以上、これまで四つのVTuberのタイプを分類してきた。これだけでも比較的細かな議論ができるように思われるが、私たちが注目したいのは、さらに次の議論である。

すなわち、「にじさんじ」や「ホロライブプロダクション」といった、今日の「VTuber文化」そのものの根幹を担っているVTuberたちを分析する議論である。

「にじさんじ」や「ホロライブプロダクション」のVTuberたち、および彼ら・彼女らの活動形態に大きな影響を受けている様々な個人勢・企業勢のVTuberたちを、本稿においては暫定的に「典型的なVTuber」と呼ぶことにしよう。

そして私の問題意識は、上述の「配信者タイプ」や「虚構的存在者タイプ」といった図式において、こうした「典型的なVTuber」たちをより良く理解することができるのか、というものであった。

結論から言えば、私は「典型的なVTuber」を上述の二大タイプに分類できるとは考えていない。その理由は二つある。

一つは、典型的なVTuberによって形成されている「VTuber文化」自体が、こうした二大タイプに還元されるような仕方では展開されていないという一般的な事実である。

今日の主流のVTuber文化において、「VTuber」と「配信者」(俗に「魂」や「中の人」と呼ばれる存在)は明確に切り離されている。この二つの存在が独立しているからこそ、例えば後述の「琴吹ゆめ」の「魂対談」のような非常に興味深い事例が起こりうるのだ。

もう一つは、鑑賞実践の慣習が保持されたコミュニティに属する鑑賞者としての直観である。

典型的なVTuber(例えば「月ノ美兎」や「ときのそら」)を鑑賞するとき、私たちは「中の人が絵をかぶっている」という風に鑑賞するのだろうか? あるいは、「非実在のキャラを中の人が演じている」という風に鑑賞するのだろうか?

私たちは明らかに、このどちらの鑑賞スタイルも取らないであろう(もしもこうした鑑賞姿勢が取られているとしたら、それは例えば「ゲームデザイナーが参考にすべきゲームデザインの事例としてホラーゲームを興味深く眺める」といった状況に比すことのできる特殊事例のようなものとして理解されるべきであろう)。

ここで、「魂対談」と呼ばれる事例について紹介したい。琴吹ゆめさんは、「【4周年記念配信】魂との対談!?声優の飯塚麻結ちゃんが遊びにくるぞー!」と題された動画において、声優の飯塚麻結さんとコラボする配信を行った。

これだけを見れば、何の変哲もないコラボ配信のように聞こえるかもしれない。

だが、ここで驚くのが、この動画でゲストとして出演している飯塚麻結さんが、VTuber・琴吹ゆめさんの「中の人」(本稿で呼ぶところの「配信者」)に他ならないという事実である。これは、「VTuber・琴吹ゆめ」と「配信者・飯塚麻結」の二人が独立の存在として提示されているからこそできるコンテンツである。

同じことを、例えば「VTuber・HIKAKIN」と「配信者・HIKAKIN」で行うことはできないであろう(HIKAKINさんがこうしたコンテンツを制作することも別に不可能ではないだろうが、その場合、「VTuber・HIKAKIN」は少なくとも「配信者タイプ」ではないVTuberへと一時的にでも変化することになる)。

さらに、「ホロぐら」や「スタこれ」のような例があるとはいえ、典型的なVTuberが首尾一貫して虚構的な存在者として提示されているわけでもない。

すなわち、今日の「VTuber文化」は、「配信者」や「虚構的存在者」に還元されない独自の仕方で(制作者側および鑑賞者側によって)育まれ、形成されている文化に他ならないのである。

こうした文化の興隆を担うVTuberたちを還元主義的にのみ理解する理論は、今日の文化の複雑さやその多様性を取り損ねてしまうと言わざるを得ないだろう。

さて、こうした典型的なVTuberたちをどのような存在者として理解することができるのだろうか——この問いに対する回答として提示したいのが、「非還元タイプ」である。

(C)非還元タイプ

さらに、このCタイプを、「配信者の日常的な行動や言動を明示的な形で組み込むか否か」という基準に照らし合わせて、さらに次の二つのタイプに分類することにする。

(C-1)極端な非還元タイプ
(C-2)穏健な非還元タイプ

「極端な非還元タイプ」とは配信者の日常的な行動や言動を明示的な形で組み込まないCタイプのVTuberである。

このタイプはかなり珍しく、おそらく「キズナアイ」くらいしかこのタイプを見出すことはできないように思われる(この点については、より詳細な検討が別途求められるだろう)。

そして「穏健な非還元タイプ」とは、配信者の日常的な行動や言動を明示的な形で組み込むCタイプのVTuberである。

現状においてはこちらのタイプの方が圧倒的に多く、例えばにじさんじやホロライブプロダクション所属のVTuberたちは、およそ全員がこのタイプに分類されるように思われる。

すなわち、「昨日コンビニに行ったときに~」や「この前収録に行ってきたんだけど~」といった「バーチャルな姿で行い得ないこと」を平然と配信中において話し、それを鑑賞者も当たり前のように受容する、ということである。

ここで「穏健な(moderate)」と付されているのは、このタイプは「非還元タイプ」でありながらも、部分的には配信者にしかそのステータスを見出すことができないような言動や行動を行うからである(例えば配信中において「配信者」は水を飲んだりするが、「VTuber」の姿として実際に水を飲めているわけではない、等——こうした事例は枚挙にいとまがない)。

そして本稿においては、こうした「穏健な非還元タイプ」のVTuberたちこそが、場合によってはバラエティ番組のような企画も行うことができ(例: 「ROF-MAO」)、場合によってはアニメーション作品のような演出も違和感なく行うことができる(例: 「ホロぐら」)ような、今日の「VTuber文化」の根幹部分を担うVTuberたちであると考えているのである。

さて、ここまで議論を踏まえた上で、「VTuberの哲学とは何か?」という問いに答えることにしよう。

「VTuberの哲学」とは、「VTuber」と呼ばれる存在者の本性を多様なアプローチにおいて検討し、その際に生じる普遍的な問題(例: 「実在とは何か?」・「虚構とは何か?」・「行為とは何か?」・「自己とは何か?」等)に対し既存の哲学研究のアプローチを用いて回答を試みる学問領域である。

それだけではない。今日「VTuber」とひとくくりにされている存在者をより正確に理解できるような図式を提示することを通して、今日の「VTuber文化」の意義と魅力を言語化していくことも、「VTuberの哲学」が達成すべき目標である。

本稿は未だ「VTuberの哲学」の概略部分しか提示することができていないが、その基本的な性格については明らかにできたように思われる。

(3)VTuberにとって「身体」とは何か?

さて、これまでの議論を通して、本稿においては最後に「VTuberの身体論」とも言うべき議論を――非常に概略的な仕方ではあるが――展開していくことにしたい。

本稿においては、これまでVTuberのタイプを六つに分けて説明をしてきた。そして、本節において明示せねばならないことは、それぞれのVTuberのタイプに応じて、「アバター」の意味合いが大きく異なってくるということである。

例えば、「配信者タイプ」のVTuberにとって、アバターは「コスプレ」の如きものである。当然、そのアバターは自らのアイデンティティに起因する欲望を満たす形で選ばれる必要がある。

しかし逆に言えば、より自らの欲望を叶える(「もっとカッコいい」、あるいは「もっと可愛い」ような)アバターがあるならば、いくらでもそちらに切り替えて良いということである。

だが、こうした事情は「非還元タイプ」のVTuberたちには当てはまらない。例えば、リゼ・ヘルエスタさんや兎田ぺこらさんのアバターが定期的にガラッと変わってしまうとしたならば、私たちはもはやその存在者を、これまで同じ「リゼ・ヘルエスタ」さんや「兎田ぺこら」さんとして鑑賞することはできないだろう。

典型的なVTuberたちにとって、アバターとは字義通り「身体」に他ならない存在である。それは「コスプレ」とは全く次元の異なるものである。

「コスプレ」なのであれば、いくらでも替えが利く。だが、典型的なVTuberたちにとって自らのアバターとは、それによって行為しなければならない身体表現の「場」に他ならないのだ。言わば、「付き合っていかなければならない身体」という意味において、私たちが有する「身体」と同列の水準に存在するのである。

もちろん、私たちの「身体」と比べて根本的に異質である点も容易に見出されるだろう。例えば、典型的なVTuberたちの中には、ある特定の服装や髪型が変わるのみならず、根本的に風貌が変わってしまうようなVTuberも存在する。

だが、仮にそのような変化が生じている場合でさえも、それぞれのアバターの中には、ある同一の存在者を指し示す共通のシンボルが見出されることがほとんどである(鑑賞者はそうした「シンボル」を手がかりに「同じVTuberである」という同一性の判断を行うことができる)。

このように、物理的な身体の制約から大きく解き放たれた「身体変容」が生じうるという意味において、私たちが有する「身体」とは大きく異なる性質を有しているのである(例えばこちらの月ノ美兎さんの動画をご覧いただきたい)。

また、「身体としてのアバター」の必然性にも着目する必要がある。

アバターによって身体が表現されるという事態は、典型的なVTuberたちにとっては決定的である。その出自からしてバーチャルな姿をしている典型的なVTuberたちにとって、自らの身体がアバターによって表現されるという事態は、自らの存在が成立する契機そのものを成している。

他方で、こうした点は、(現状の)「虚構的存在者タイプ」のVTuberにおいては基本的に当てはまらない。なぜなら、虚構世界の登場人物にとって、その身体表現がアバターでなされなければならない必然性は特にないからである。

むしろ虚構世界の登場人物は、小説のように文字で表現されたり、漫画やアニメのようにイラストで表現されたりするのが典型的であるだろう。すなわち、身体としてアバターを有することがどこまで本質的なのかについては、それぞれのVTuberのタイプによって大きく変わってくるのである。

参考事例として、次の動画を取り上げてみたい。ホロライブプロダクション所属のVTuberである姫森ルーナさんは、2022年7月23日に「新衣装」のお披露目配信を行った。

ここで言う「新衣装」とは、初期衣装のドレス姿、正月衣装の晴れ着姿、ショートヘアの私服姿に続く四つ目の衣装姿のことを指す。

その姿は、まるでお城の舞踏会に参加するお姫様そのものなのであるが、私たちがここで着目したいのは、その可憐な姿に「新しい可能性」そのものが付与されているという点である。典型的なVTuberは、配信者の動きがモーションキャプチャーによって取り込まれ、その運動がアバターに反映されることによって自らの動きを創出することができる。

だが、配信者の存在だけがポテンシャルを発揮するわけではない。アバターの運動のシステム全体がそれに対応するからこそ、VTuberの動きが現実化するのである。

典型的なVTuberにとって「新衣装」がお披露目されるとは、単にビジュアルが変わって見た目が華やかになるという事態を意味するわけではない。それ以上に、アバターの運動システムそのものが拡張されることによって、VTuberとして実現可能な振る舞いや行動がポテンシャルのレベルで増えることが意味されているのだ。

現に、姫森ルーナさんは単に新衣装の姿を身にまとったのみならず、これまでリスナーたちに見せてこなかったような「ハの字」の眉毛で恥ずかしそうに微笑むようになったのだ。こうした笑顔の表情の繊細な変化は、「姫森ルーナ」という存在自体の奥行きが広がったことを示している。

さらに、姫森ルーナさんの髪の毛がツインテールになったり、その可愛らしい前髪がパッツンになったりしただけではない。新しく付与された要素として、「瞳のハイライトが消える」という状態があるのだ。

姫森ルーナさんの瞳は右目が「紫色」、左目が「緑色」というオッドアイなのであるが、その瞳から(絶望を感じたかのように)スッと光が消えるのである。後日、その瞳の状態で行われた『バイオハザード HD REMASTER』実況は、まるで本当に姫森ルーナさんが館からの脱出を図っているかのような臨場感を視聴者に与えた。

言わば、典型的なVTuberによる「新衣装」お披露目は、「身体」を拡張させるのみならず、その人物がまとう「世界観」そのものを変容させる契機でもあるのだ。

こうした「新衣装」お披露目の瞬間が、典型的なVTuberたちにとってどのような意味を有しているか、そしてリスナーたちにとってもどれだけ大切な意味を帯びているか。

こうした点を確認されたい方は、ぜひ姫森ルーナさんがお披露目をされた翌日(2022年7月24日)に「新衣装」をお披露目された夜見れなさんの配信動画を視聴していただきたい。そこでは満を持して自らの「制服姿」をお披露目する妖艶な夜見さんの姿を確認することができる。

VTuberは、自らの身体や想像力を駆使して様々なコンテンツを日夜世界に生み出し続けている。私たちは、彼女ら、彼らのそうしたクリエイティブな姿勢から、日々を元気に過ごす活力をもらっている。あまりにも広大な「VTuber文化」の諸相を目の当たりにすると、私たちはその文化の特殊性を考察することすら躊躇ってしまうかもしれない。

だが、もとより「VTuber文化」に限らず、人々の間で育まれる「文化」という存在は、常に複雑で、多様で、捉え難い存在である。こうした「文化」なる存在の諸相を掴もうとする試みは、これまでも古今東西の学者たちが試みてきたことであった。

「VTuberの哲学」は、今日発展の著しい「VTuber文化」という広大な大海原を航海し、その海の色がどれだけ異なっているのかを観測する試みである。

そして「VTuberの哲学」は、すぐさま「フィクションの哲学」や「ビデオゲームの哲学」といった隣接諸分野にまで漕ぎ出すことになるだろう。なんとなれば、今日のVTuber文化自体が、「ゲーム実況」や「アニメーションの技法」などを駆使して成立している複合的な文化現象に他ならないからである。

最後に一つだけ書き添えて本稿の結びとしたい。それは、「VTuberの哲学」とは「VTuber哲学する」のみならず、「VTuberから・・哲学する」営みでもあるということである。

VTuberと呼ばれる存在者の本性を多様な観点から考察するだけでなく、VTuberたちのコンテンツを鑑賞する最中に生まれる哲学的な難問――「芸術とは何か」、「人生とは何か」、「愛とは何か」など――に真正面から取り組むことも、「VTuberの哲学」の大きな役割である。

その場合、ともすれば私たちの考察の範囲はVTuberのコンテンツから遠く離れてしまうかもしれない。だが、一度哲学の大建造物を経由した「眼差し」で再びVTuber文化を目の当たりにしたとき、きっと私たちの目には、それまでとは少し違った仕方でVTuberたちの姿が映るはずである。

だからこそ私は、すべてのVTuberのリスナーにとって、そしてすべての哲学研究者(および哲学愛好家)にとって、「VTuberの哲学」が大きな意義を有していると信じてやまないのである。

「キズナアイ」を始めとした「VTuber文化」が世に形成され始めて、まだ六年も経っていない。「VTuberの哲学」というプロジェクトは、「VTuber文化」の広大なフィールドを歩み始めたばかりなのである。

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