近年、ファッション系のニュースにおいて「文化の盗用」という言葉を目にする機会が増えてきている。一般的には「ある特定の文化圏における要素を、他の文化圏の者が流用する行為」を指すことが多い。
たとえば、2022年には「ジュンヤ ワタナベ マン(JUNYA WATANABE MAN)」が2022-23年秋冬コレクションで、メキシコの伝統的な織物である「サラぺ柄」をモチーフとして利用したが、メキシコ文化庁から「文化の盗用」であると非難されたことが記憶に新しい。
ジュンヤ ワタナベ マンは、同国文化庁から協力を仰ぐ形でコレクションを進めていたが、交渉の合意に至る前にコレクションを発表したとされ、その対応が「非倫理的である」と批判された。
そこで今回、ファッション業界で起きている文化の盗用の問題とその背景、それらに対して私たちはどのように向き合っていくべきかについて、南山大学法学部の家田崇教授にお話を伺った。
南山大学法学部教授
名古屋大学法学部卒業後、同大学大学院法学研究科博士課程(後期課程)単位取得退学。
甲南大学会計大学院教授などを経て現職。専門は会社法・商法。
主な業績として、家田崇「ファッションに関連する文化流用と差別表現」南山法学44巻2号(2021年)。
私はもともと会社法の研究をしていたのですが、ニューヨークのフォーダム大学で在外研究を行う機会があり、新しいテーマでの研究を始めることになりました。
その際、同大学にはファッション・ロー・インスティテュートというファッションローに関する研究機関があったことや、在米中にプラダ(PRADA)のマスコット「プラダマリア(PRADAMALIA)」シリーズの「オットー(OTTO)」というキャラクターが人種差別的だと問題になった事案を耳にしたことから、ファッション・ロー、特に文化の盗用について研究することにしました。
合わせて、文化の盗用という分野は全くの門外漢ではなく、人権・差別の問題などと密接な関係を持つため、私が本来研究していた会社法の一分野であるコーポレートガバナンスの構築理論の観点から分析ができることも、大きな理由となりました。
文化の盗用は元来カルチュアル・アプロプリエーション(cultual appropriation)という単語用語の邦訳ですが、この単語の定義は非常に曖昧なものになります。その背景として、盗用される文化の内容や、それに対する非難の度合いが単一ではなく、かなり幅を持ったものであるためです。
たとえば、最も非難される可能性の高い盗用は、侵略した国の有形文化財を自国へと持ち込み、美術館などで展示をすることです。その一方で、文化的なモチーフ(文様や柄)といった知的な文化財などを利用することは、盗用ではなくオマージュと判断されて、非難の対象にならないケースもあります。
このように、非難の度合いが高ければ「文化の盗用」となりますし、その可能性が低いものに関しては「文化の利用」とも呼ばれるわけです。また、「文化の盗用である」と非難されるかどうかは、その時々の状況や環境にも左右されるため、常に起こりうると言えます。
その中でも、文化の盗用として非難の対象となるケースにおいては、多数派が少数派の歴史を理解していなかったり、支配者側が非支配者側について意識が及んでいなかったりすることが背景にあります。さらに、第三者的な立場の人々においては、その関係性すらわかっていないケースもあります。
そのため、「文化の盗用である」という批判がされた場合、なぜそうした批判が起きたのか、まずはその声に耳を傾ける必要があるでしょう。
ファッション業界では、文様や柄といった文化的モチーフの利用が、まず一番に問題になりやすいと思われます。昨年の「ジュンヤ ワタナベ マン」の事案もこのタイプですね。
もうひとつは、文化の利用者側がその文化のイメージを誤用してしまうことも、よくあるタイプの文化の盗用として挙げられると思います。
たとえば、アメリカの先住民族においては、彼らのヘッドピースは集団ごとに象徴的となる模様や、羽根、大きさが異なっており、またそれをつける層も決まっていて、彼らの文化として非常に重要なものです。
ですから、「ヴィクトリアズ・シークレット(Victoria’s Secret)」が2012年、そして2017年のショーで再び行ってしまったように、単なるエキゾチックなイメージとしてそれらを捉え、ファッションショーにおけるアイキャッチとして利用したことは強い非難の対象となったわけです。
また、文化の盗用が指摘されるのは衣服やアクセサリーに限りません。ヘアメイクやスタイリングにおいても多くあります。
特にモチーフの組み合わせや利用方法によって違う意味を生み出してしまうケースには注意が必要です。ヴィクトリアズ・シークレットのショーで、いくつもの異なる少数民族のモチーフを、単なるアイキャッチとして利用していたことなども非難の対象になります。
そうですね。ただ、確かにガイドラインは有効ですが、これは「問題を全く意識していないところから意識させる」という点においての有用性になると思います。
ガイドラインを設けたからといって文化の盗用が発生しなくなるという話ではないので、この点を絶対に間違えてはいけないと思います。
それはなぜかというと、そもそもガイドラインを作る人々自体、仮に多様な人々による集合体であったとしても、ある文化にとっては必ずアウトサイダーになりますので、完全なガイドラインを作ることは不可能だからです。
さらに、文化の盗用はガイドラインを守って「法的には免責されたから問題がない」という話だけではなく、「文化の破壊行為に繋がっている」「継承がされていない」といった、「非難可能性」も問題になっているからです。
つまり、法的に問題ないからといって、非難されないというわけではありません。特にビジネスをする上では法的にクリアされていても「炎上」につながることもあります。そのため、そうした事態をいかに回避するか、仮にそうした事態を招いてしまった場合にどう対応するかが重要になっているわけです。
こうした問題が起こる背景の一つとしては、ファッション業界の構造それ自体も関係しています。
たとえば、現在においてもファッションショー、いわゆるランウェイがブランドのPRの中心になっているわけですが、ランウェイにおける魅せ方はその瞬間瞬間によって変化しますし、その作業も分業化が進んでいますので、十分な議論や手続きが踏まえられないまま、短い期間の中でショーにおけるインパクトが求められています。
その中で、本来の意図から離れたデザインやファッションに変化したり、組み合わせが行われたりすることで問題が起きることもあります。また、ファッションのグローバル化が進む中で、業界のサイクルと流行の移ろいは非常に早く、スピードが要求され続けていることも変わっていません。
すごくベーシックですけれど、ファッションに関わる方々は自国や他国をきちんとリサーチした上で、そのファッションがどういう意味を持つのかを理解する必要があります。もちろん自国内においても少数民族の文化を理解しようとする姿勢が重要になってきます。
日本が「文化の盗用をされた」という意味で、近年注目された事例としては、キム・カーダシアンが矯正下着のブランドを立ち上げて「KIMONO」と名付けて商標登録を行おうとしたことがありましたよね。このケースは商標登録が関わる特殊なパターンではありますが、改めて「着物とは何か」を考えさせる契機ともなりました。
実際、今の日本人にとって着物は普段着ではないですし、必ずしも身近な衣服ではありません。人によってその理解の幅も様々です。その中で、「日本人として着物をどのように位置付けるのか」「日本として着物をどのように世界に発信していくのか」が問われると思います。
その上で、実際のファッションの現場においては、製作の経緯をきちんと残すことも重要になると思います。
「コム デ ギャルソン オム プリュス(Comme des Garçons Homme Plus)」が2020-21年秋冬コレクションのショーでモデルが着用したコーンロウのウィッグが文化の盗用だと批判された際には、ヘアスタイリストのジュリアン・ディスが、自身のインスタグラムで謝罪の投稿をしていますが、アイデアスケッチも投稿していて、エジプトの王族からインスピレーションを受けたことを明かしています。
こうした経緯を明らかにすることで、事後的にではありますが、差別的な視点に立っていなかったことを明示できます。ブランドの作品について、一つひとつきちんと説明できる準備をしておく必要があると思います。
文化の盗用に関しては、様々な事例を踏まえながら、批判される可能性が常に存在することを意識しながら、ガイドラインの制作と遵守を行い、デザインのプロセスも残す。そして、プロセスを残すことによって、ファッションやデザインのリサーチに活かしていくという循環が求められると思います。
ファッションについてSNSで議論されたり、メタバース上で展開されたりするようになることで、ファッションそれ自体が非常に多様なものになっていくかも知れませんし、反対に、画一化の方向に進むかも知れません。現在は、その両方の可能性が同時に予想されます。
つまり、固有の文化というものがどんどん融合していき、新たな個性になっていくかもしれませんし、現在の支配的な基準である「カッコよさ」や「可愛さ」の画一化が進展するかもしれません。
しかし、いずれの場合においても、そこで留意すべきことは、先ほども申し上げた多数派と少数派、支配する側と支配される側との関係性に他なりません。文化の盗用とは、「多くの人が問題ないと思ってしまうことこそが問題である」という意味において、非常に象徴的な言葉だと思います。
SNSやテクノロジーが発展するからこそ「なぜこの人は声を上げたのか」「どうして文化の盗用だと批判するのか」、そこにきちんと向き合い続けることが重要だと思います。