長らくスニーカーの王者として君臨するナイキ「エア ジョーダン」。ナイキはどのようにNBAのルーキーと契約したのか? 新しいシグネチャーシューズはどのように開発されたのか? その真実に迫った映画「
AIR/エア」が公開された。今回は「エア ジョーダン」に詳しいSKITの代表である鎌本勝茂さんに、伝え聞いているその真相を伺っていくとともに、新作映画の詳細も紹介していこう。
マイケル・ジョーダンはアディダスと契約したかった!?
「エア ジョーダン1」は“バスケットボールの神様”ことマイケル・ジョーダンのシグネチャーシューズとして1985年に登場した。現在「エア ジョーダン」は37作までシリーズ化され、まさに伝説のシューズとしてスニーカー界に君臨している。ナイキとしても、「ダンク」とともにバスケットボールシーンにおいて確固たる地位を築くことになるモデルだが、ナイキがなぜマイケル・ジョーダンに目を付けたのか、そしてどのようにして契約に至ったのかなどの舞台裏は謎に包まれたままだ。
今回、その契約の舞台裏を、「エア ジョーダン」シリーズに詳しい鎌本さんに伺うとこう答えてくれた。
「大学時代のマイケル・ジョーダンは『コンバース』の“プロスター”や“ファストブレイク”というモデルを履いていたそうです。
大学時代に華々しい活躍をしたマイケル・ジョーダンに目を付けた『ナイキ』はNBAでもスーパースターになると見越し、契約を持ちかけたそうですが、彼は元々『アディダス』と契約がしたくて『ナイキ』との契約には消極的だったと聞いています」
本人が乗り気でないことで契約は困難を極めた。ただ、『ナイキ』は彼のシグネチャーシューズを作ること約束。そして破格の契約金を積み、見事に契約を勝ち取ったのだ。
既存のモデル「エア シップ」が「エア ジョーダン」の原型
無事、マイケル・ジョーダンとの契約を勝ち取った「ナイキ」だが、そこから順風満帆に事が運ぶわけではなかった。どのようにして「エア ジョーダン」が生まれたのかを鎌本さんはこう続ける。「契約からNBA開幕までの短い期間で、『ナイキ』はとりあえず“エア シップ”という既存のモデルにブルズカラーの黒×赤を組み合わせてプレシーズンマッチを凌いだそうです。
そこから、当時の『ナイキ』のデザイナーであったピーター・ムーアが、米陸軍航空軍(USAAF)のシャツに着けるピンバッジから着想を得た“ウイングロゴ”を履き口に配して『エア ジョーダン』が完成したといわれています。
『エア ジョーダン1』も“エア シップ”から大きな仕様変更はなく、オーソドックスなデザインとして現在も人気となっています。歴代モデルでこの『エア ジョーダン1』だけが、サイドにナイキのアイコンである“スウッシュ”が施されているのは面白いですよね」
「エア ジョーダン」に詳しい人は、同モデルの初期カラーは白×赤の通称“シカゴ”カラーだと思っているかもしれない。しかし「ナイ キ」がマイケル・ジョーダンのために用意したカラーはブルズカラーである黒×赤の通称“ブレッド”だったのだ。
彼自身、最初は「これは履けない。悪魔の色だ」と言い、履くことを拒否したという。それは大学時代のライバルチームであるノースカロライナ州立大学のチームカラーが黒×赤だったからだといわれている(※マイケル・ジョーダンはノースカロライナ大学チャペルヒル校でプレーし、チームカラーはサックスブルー×白だった)。
また黒×赤の通称“ブレッド”はNBAのルールの範疇に収まっていなかった。そのエピソードに関しても鎌本さんはこう語る。
「当時のNBAでのルールで、着用シューズは白の面積が一定以上あることを定めていたそうですが、『エア ジョーダン』の“ブレッド(黒×赤カラー)”はその着用ルールに抵触していました。
度重なる着用禁止勧告でマイケル・ジョーダンは罰金を科せられたが、その罰金を『ナイキ』が肩代わりしたといわれています。そのルールに対応するために生まれたのが白×赤の“シカゴ”というカラーと、白ベースに黒と赤が差し色になった通称“つま黒”で、実際にルーキーイヤーではその2足を履いていたそうです」
また「ナイキ」はその出来事を逆手にとって、“NBAはジョーダンにシューズの着用を禁止したが君たちが履くことを禁止できない”と謳ったCMを放送して注目を得ることで、爆発的な人気を獲得していくのだった。