アメ横センタービルは、1982年に誕生したショッピングビルだ。通りを挟んで、JRのガードのちょうど真向かいに、並行して建っている。かつては『SHIPS』の前身であった『ミウラ』など、伝説のショップが存在し、現在でも『守屋』『ヤヨイ』『ミタスニーカーズ』など、アメ横を語るうえで絶対に欠かすことのできないショップがいくつも入っている。その中でも最古参のひとつが、2階にある『ハナカワ』だ。
『ハナカワ』の店頭は、いつも趣味のよいカラートーン。ちょっと渋みのある色味や、味わいのある質感のアイテムが美しく並べられている大人のためのカジュアルが揃っている。個人的には1点残らずツボに入るアイテムばかりで、まさしく"セレクトされているショップ"だと思える品揃えだ。
急逝した先代に代わって社長を務めており、以前はアメ横センタービルの商店会の理事も兼ねていた2代目・花川利郎さんに話を聞いた。
「ハナカワという名前で店を始めたのは1946年、終戦の翌年ごろで、父の代に闇市の飴屋からスタートしています。当時は甘いものが不足していたからか、常磐線や宇都宮の奥のほうからも朝早く から仕入れの人が来ていたようです。
私の幼い頃の記憶では、1950年代後半にはおいなりさんとか巻き寿司なんかを商う店がまだけっこう残っていましたね。アメリカものを扱うからアメ横だ、という人もいますが、やっぱりウチのような飴屋が多かったから「アメヤ横丁=アメ横」なんだよ、というふうに聞いています。
父の飴屋はその後、衣料品を扱う商売に変わっていきます。私は1953年生まれなのですが、物心ついた4〜5才のころは、すでに舶来品の衣料品や雑貨を扱う店になっていました。
最初は米軍の払い下げ品をはじめ、いろいろ扱っていたようです。たまに入ってくれば、電化製品とか、GE(ゼネラル・エレクトリック)の冷蔵庫なんかを置いていた時もありました。あとは日本では手に入らないような大きなピローケースとか、ダブルのシーツとか、そういった生活雑貨も取り扱っていて、当時のお金持ちが買いに来ていたようです」
「母が女性ものを担当していて、ヨーロッパからの『グッチ』とか『ルイ・ヴィトン』のバッグなども置いていましたね。今で言うハイブランドも、アメ横に来ないと買えないというので探しに来る人は多かった。正規の代理店が無かった時代ですので、小さな問屋さんとか、個人でそういったブランドものを取り扱う人がいたようで、そこから仕入れていたのだと思います。
特に関西には小規模の問屋さんが多くて、その繋がりでいろいろ面白いもの、珍しいものを扱っていました。『ナイキ』なんかも個人で扱っている人がいましたね。
問屋さんは、2〜3人でやっているような、本当に小さい規模のところが多かった。自分でじかに買いつけに行って、ちょっと気の利いた小物を探してきてくれたりする。"ルイ・ヴィトンが人気らしい"と聞くと、向こうのお店に行って探してきてくれたり。もちろんそういったブランドだけでなく、新しいものをいろいろ持ってきてくれていたんです」
『ハナカワ』自らが直輸入をして大人気になり、求められて全国に卸していたものもある。舶来の面白いもの、新鮮なものを見定め続けることによって培われた、審美眼のなせる技だろう。
「アメリカの本社とやりとりをして、ローファーやデッキシューズの『セバゴ』やスニーカーの『ケッズ』などは、直接輸入していました。『ヘインズ』は、父が親しくしていた神戸の小さな問屋さんが取り扱っていたのですが、その方が早く亡くなってしまい、そのあとはウチがアメリカ本社から直接輸入することになったんです。
特に『ヘインズ』の3枚パックのTシャツは、ウチは早くから取り扱っていたのですが他にはまだ誰も扱っていなかったので、すごい人気になって。そのうち他のお店や問屋さんも取り扱うようになり、大手代理店が入るようになってしまいましたが」
他にも『ハナカワ』は、スケートボードの『ゴードン&スミス』、ワークウェアの『オシコシ』などの輸入ルートを独自に開拓し、存在感を示してきた。いずれも古くからの定番のイメージにとらわれない、新鮮な驚きのあるブランドだった。
「当時からずっと、周りにない新しいものを、真似されるようなものを入れていこう、という気概を持ってやってきています。直輸入したブランドは、全国に卸していました。飴屋と同じで、欲しがる人も多くて、みんなアメ横に探しに来てくれる。地方のお店で置きたい、という人もいる。そういう人に売ってたというだけでそんなに大きな展開はしていないですが……」と花川さんは謙遜する。
しかし『ハナカワ』の商いは、「アメ横に行けば珍しいものが手に入る」「いいものが安く手に入る」という全国的なアメ横のイメージそのものだ。アメ横インポートショップの先駆けとして、その名が轟いているのもうなずける。
ところで、『ハナカワ』が位置するのはアメ横センタービルの2階。旧国鉄のガード下に広がる商店会群とは別の建物だ。NHKの大ヒット朝ドラ『あまちゃん』の『アメ横女学園』の聖地としてもスポットを浴びた。
このアメ横センタービルに入ってるのは、もともとは実業家・近藤広吉氏がとりまとめていた『近藤産業マーケット』にあったショップ群。戦後に闇市とよばれ、カオスとなっていた上野〜御徒町付近だが、その維持と正常化のために奔走した人も多いと聞く。そのためか、アメ横周辺は未だに各商店会や組合の結束も強く、昔ながらのレトロな景観の維持や、観光客の誘致にも地域ぐるみで取り組んでいる印象が強い。
1982年に現在のアメ横センタービルが竣工した時も、地域を挙げての華やかな祝賀行事が繰り広げられたようだ。三角形の土地に建つ、軍艦のような斬新なデザイン、豪華なステンドグラス、エスカレーターもあるデパートのような造り。闇市と呼ばれた区割りマーケットの、複雑に入り組んだ地権のとりまとめや、火事による焼失などを乗り越えて完成した夢のようなビルは、地域全体の悲願だったと聞く。
「屋上には子供たちが遊べる遊具まであって賑やかでした」と、商店会のとりまとめの仕事もしてきた花川さんは語る。当時は衣料品店のほか、宝飾店や化粧品店など女性向けのショップも入り、4階は飲食店街、地下は食品マーケット。新たなアメ横のランドマークの誕生に地域は湧いたようだ。時はバブル景気前夜。日本がイケイケだった時代、さながら、夢のまほろばのようだった。
センタービルの誕生からちょうど40年、アメ横商店街の誕生から70年余。
「インポートショップは、世代交代の時に跡継ぎがいなくてやめてしまったところ、アメ横を出て成功したところ、手を広げすぎてバブルがはじけてしまったところ……。いろいろありますね。
コロナ禍も拍車をかけていますが、今のアメ横は日本人が経営しているお店も減って、飲食の店舗が多い。服を買う街というより、飲み喰いする観光の街という感じになりました。このアメ横センタービルも、地下は外国語が飛び交う食材マーケットになっています。以前は、そういったアジア系食材を扱うお店は一軒だけだったんですが……」
取り扱っていたインポートブランド自体も様変わりしている、と花川さんは語る。
「どのブランドも人気が出ると、大きな商社が総代理店になったり、日本法人を作ったりして持って行ってしまう。そうすると価格も高めになるし、小さいお店には卸せない、となってしまうんです」
本来は、輸入総代理などが並行輸入品を締め出せば、独占禁止法に抵触する可能性がある。しかし実際はそういった妨害のような事例は多く、小規模な輸入業者は取引を諦めざるを得ない。
「独自のルートで自由に商品を調達して、安く売ったりできるのがアメ横の良いところだったのですが……」
商品自体もデザインやカッティングが代わってしまったり、生産背景が変わってしまったりで、同じ商品を置き続けることは難しい。『ハナカワ』では別のメーカーのものを探して切り替えたり、国内のブランドで国内生産の、こだわりのブランドをセレクトするなどして、次のスタイルを模索している。
「最近の人たちは、有名ブランドだと安心して買うけれど、知らないブランドとなるととたんに敬遠してしまう。商品自体の質や、自分に合うかどうかにこだわって買う人が少なくなっているし、失敗することをすごく恐れているように見えます。昔は、失敗から学んでファッションを勉強していく、というようなところがあったと思うのですが……。
また、今の人はファストファッションに慣れているので、単にプライスだけで比較されてしまうと厳しいものがあります。スマホで商品を撮影して、検索するようなお客さんも多くなっているのは事実です。
でも買い物をしてくれたお客さんが、後日『同じTシャツでも、ファッストファッションのものとは着心地がぜんぜん違うんですね!』と言ってきてくれる、なんていうこともあります。アメ横もアメ横センタービルも、来ると本当に面白いところです。ぜひ実際に歩き回ってみて、体験してみて欲しいですね」
株式会社ハナカワ・代表取締役社長。アメ横屈指の老舗インポートショップ『ハナカワ』の2代目として、幼少期からアメ横で過ごす。
〒110-0005
東京都台東区上野4−7−8アメ横センタービル2F
TEL:03-3833-8905
営業時間:10:00~20:00
定休日:第三水曜日
https://www.rakuten.co.jp/hanakawa/
Text by Mika Kageyama