今や"ミリタリー"は、ファッション界にしっかりと根を下ろしている定番モチーフのひとつだ。軍用のユニフォームや戦闘服に由来するカラーやプリント、ディテールは、ストリートからハイブランドに至るまであらゆるところに浸透し、幅広いユーザーに消費されている。もはや、普段はそれらを意識することすらなくなっているかもしれない。
しかし、そもそもミリタリーをファッションとして楽しめるということは、今ここが"戦時下にない"ことの証しだ。軍服を軍服として着用せざるを得ない状況を目にすることも増えている昨今、改めて、戦後日本で"ミリタリーのファッション化"を定着させ、その普及に大きく貢献した伝説のショップ『中田商店』に話を聞いた。
このショップの不思議なところは、訪れるのがいわゆる"軍服マニア"だけではないということ。老若男女、子どもまで、さまざまな客が気軽に商品を購入していく。しかも置いてあるアイテムは、どれも本格的なミリタリー仕様であり、"それっぽいミリタリー調デザイン"などではない。
「扱っているのはサープラス、つまり軍からの余剰物資の放出品や、軍服のレプリカ、軍装品などです。たくさんの人に着てもらいたいので、価格も抑えています」と話してくれたのは、『中田商店』の中田哲二常務。
父である創始者・中田忠夫氏の遺志を受け継ぎ、商品企画や買い付け、カタログ制作などを担当している。
「先代の中田忠夫は年齢が若かったことと、視力が悪かったことから徴兵されなかったのですが、鉄道会社(華北交通)の求人に応じて1945年に北京に渡り、直後に終戦を迎えました。翌年には日本に引き揚げることができたのですが、その途中で一緒に行動していた仲間を何人も亡くすことになり、引き取り手もなかった遺体を一人で弔ったそうです。
まだ10代だった頃のこの体験から、"何が何でも戦争はいけないということを、強く訴えたい" という理念が生まれました。ですからこの軍服や軍装品の商売も、"戦争をなくすには、戦争のことをもっと知ってもらわなくてはならない" という戦争防止の目的で始めたこと。ゆくゆくは、平和を訴えるための『戦争資料館』をつくりたいという構想も持っていました」
戦後すぐの1946年ごろから、マーケットで軍装品などを扱うようになった先代の中田氏。朝鮮戦争が始まる1950年ごろには、アメリカの進駐軍からの放出品も増え、上野界隈にもそれらを扱うさまざまな露店などが増えていったそうだ。
当時はジーンズや化粧品などの放出品も非常に人気が高く、今でもアメ横周辺にはそれらを扱う店が数多く残っている。
中田氏も最初は銀座を拠点に靴クリームや化粧品などをリヤカーの屋台で商っていたが、1956年にはアメ横に『中田商店』の原型となる小さな店舗を構えることに。そこでおもちゃのピストルを輸入して売り始め、大ヒットを飛ばす。
「どこよりも早くピストルを売り始めたのも、もとはといえば戦争の記憶を風化させたくないということから。また、子どもたちが買ってくれたのだから、そのお金を有意義なことに使いたいと考えていたようです。
その後はオリジナルで精巧なモデルガンを造り、行列ができるほどの人気になりましたが、モデルガンも"売れるから何でも作る"というわけではなく、軍用の銃だけを造っていました。最も売れたのは『ワルサーP38』というモデル。その後、アニメ(ルパン三世)の歌の歌詞にも出てくるようになりましたね」
1962年には、御徒町駅からほど近い旧国鉄のガード下に大きな店舗を構えることに。これが現在の『中田商店』だ。店舗が大きくなったことで、モデルガンだけでなく、米軍の放出品である軍服や革のジャンパーも置けるようになり、連日盛況を極めたそう。
ちょうど60年前のこのときが、ミリタリーブームの起点となったと言えるかもしれない。
モデルガンを中心に軍の衣料品なども取り扱う、アメ横でも屈指の有名ショップとなった『中田商店』。インタビューで訪れた事務所では、1975年に発行された『ずうとるび』のポスターを見せてもらった。
当時大人気だったアイドルグループの4人は、全身を『中田商店』が扱っていた米軍のサープラスで固め、ベレー帽をかぶり、NAKATAオリジナルのモデルガンを抱えてポーズを取っていた。'70年代半ばにはすでに戦争の記憶が薄れつつあり、ミリタリーがファッションとして浸透していたのだろう、と感じさせる一枚だ。
ただし、一方で同時期には、銃を使ったさまざまな事件が社会を騒がせていた。しかもそのなかには、本物と見せかけてモデルガンを使ったものがいくつもあったようだ。さらに、いたずらや改造で怪我をする子どもたちもいた。
「NAKATAオリジナルのモデルガンは、外見は細部まで忠実に再現していましたが、弾は絶対に出ないように配慮していましたし、もちろんきちんと規制に沿って造られたものでした。それでも規制がどんどん厳しくなって、使用できる部材も限られ、思うようなものが造れなくなってきたのです」
表現の自由を願い、権力からの規制を嫌う『中田商店』は、そのころからモデルガン製造への情熱を失い、衣料品に絞った商いへとシフトしていく。
ベトナム戦争が終結に向かい、アメリカ軍が撤退した1974年ごろ。『中田商店』は沖縄の米軍基地より、払い下げの戦闘服などをなんと10万着も仕入れた。終戦直後のモノのない時代ならいざ知らず、"古着"なんて売れるのか?と危惧されたそうだが、これがまた飛ぶように売れたという。
そのときに仕入れたのが、現在でもミリタリーのド定番として愛されている、フロントに4つポケットのついた「ジャングルファティーグ」だ。軍服が単なる"暑さ寒さをしのぐための丈夫な実用品"ではなく、"わざわざ選んで着る、ファッションとしてのアイテム"に変わっていった、象徴的な出来事と言えそうだ。
実は『中田商店』の商品がブームを巻き起こすのには、さらなる大きな理由がある。それは販売にあたって、買いやすいように適正な価格を設定していることだ。あくまでも"戦争の記憶を風化させないこと"が目的なので、たとえ薄利であってもなるべく多くの人に買ってもらいたい、というのが彼らの理念。
衣料品をメインに取り扱うことに決めてからもそれはブレることがなかったので、一部のマニアを囲い込んだり、レアなアイテムを高値で売るといったようなことをしてこなかったのだ。
「昔のサープラスは、プレミアムがついてものすごく高価になっていたりしますが、そういうことにはぜんぜん興味がないのです。あくまでも低価格で、たくさん売るようにしたい」と語る哲二さん。
この『中田商店』の開かれた理念が、結果的にミリタリーがファッションとして普及することに大きく貢献したのではないだろうか。
「'80年くらいから、スタイリストさんが女性誌の"チープシック特集"で借りにきてくれるようになって、女性のお客さんの行列ができたり、ベレー帽が人気になったりしました。
その後も映画『トップガン(’86)』のブームで、トム・クルーズが劇中で実際に着ていた、ワッペンのついた海軍のフライトジャケットG-1が売れたりしました。先日公開された『トップガン マーヴェリック(’22)』ではCWU-36Pを着ていたのですが、それもよく売れています」
中には、自分たちが想定していなかったようなものも人気になった、と哲二さんは語る。
「『トップガン(’86)』のころは、トム・クルーズが全く着ていなかったにもかかわらず、なぜかALPHA社の黒色のMA-1がものすごく売れました(笑)。米軍の認識票ドッグ・タグもすごい人気になって、名前を刻印できるサービスが追いつかないほどでした。
さらに"勲章は命と引き換えにするほどの価値があるのか?"という問題提起もあって 、リボン付きの勲章を低価格で作ったりしたのですが、単に可愛いという理由で女性がいくつも買っていってくれたりしたのは意外でした」
どの軍の軍服も、ひとつところに同じように並ぶ店頭。これぞ、中田が目指した和平。
昨今の世界情勢を鑑みて、『中田商店』はミリタリーファッションを改めてどのように捉えているのだろうか。
「戦後は、"なぜ軍服なんかを売るんだ、戦争のことを思い出すからやめて欲しい"といった抗議が、直接『中田商店』に来ていたそうです。
でも、信念を持ってともかくたくさん売っているあいだに、いつのまにかそうした声は聞かれなくなった。軍服がごく当たり前に、皆が持っているファッションとして浸透したからだと言えるのではないでしょうか。
あと『中田商店』では、米国やドイツ、フランスなどのポピュラーな国だけでなく、ロシアやポーランド、チェコ、デンマーク、自衛隊、中国人民解放軍など、手に入るかぎりさまざまな国の軍装品を扱っています。
これは、売れる、売れないにかかわらず"どの国も同じように、差をつけずに扱いたい"という先代の意向から。敵対している国だろうと関係なく、隣同士で並べることができるのが、本当の国際理解なのではないかと考えています。
今、この社会情勢になって、海外への買い付けも行きにくくなり、仕入れが困難な国も出てきていますが、できるかぎり仕入れも続けていきたいですね。そして、先代ならこんな時こそ何か行動を起こしていたと思うので、それは何なのかを考え続けていきたいです」
〒110-0005
東京都台東区上野6-4-10
TEL:03-3831-5154
営業時間:11:00~19:30
年中無休(元旦のみ休業)
https://www.nakatashoten.com/
Text by Mika Kageyama