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2023.07.04

ジュニアの心をときめかせた、ナルミヤ・インターナショナルの魅力

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好きな洋服を纏うと、その日は自分にとって少し特別で「好きな一日」になる。
子どもの頃の筆者は「洋服」にそんな思いを抱いていた。ファッションやオシャレに本格的に興味を持つ、ほんの少し前の短い期間。子ども服というのは、他の洋服とは違い、親と子の間にある関係が見え隠れする。
実際に洋服を着るのは子どもだが、そこにほんの少し(かなり過大な場合もあるだろうが)、親の意見や趣向が入るのが子ども服だ。また、自分自身に「好き」「嫌い」といった“自我”が芽生え、初めて親と子の間で一種の駆け引きが始まるのも子ども服からかもしれない。
いずれにせよ、子ども服というのは、期間限定ではあるものの、親と子を繋ぐどこか架け橋のような役割がある。
ナルミヤ・インターナショナルは、ローティーン世代の洋服に「ジュニア」と名付け、一気に時代の舵を握った会社だ。
その背景には、私たちの価値観や時代も含めてどのような変化があったのだろうか。
今回はナルミヤ・インターナショナルの歴史とともに、平成の子ども服の変遷について振り返りたい。

80年代から90年代にかけての子ども服

80年代から90年代を振り返ると、子ども服の市場もピークと停滞を繰り返し、そこにはいつも流行の波があった。80年代は母親の子ども服に対する価値観が一気に変わった時代だ。
また同時に大人のファッション嗜好も変化し、DCブランドが全盛期を迎えた時代でもあった。ファッションも個性化時代へと突入し、様々なDCブランドの洋服が街に溢れていた。そして、デザイナーたちも当然これまでの子ども服では飽き足らず、次から次に様々なテイストの子ども服ブランドを生み出し、ついには子ども服専門のファッションビルまで登場した時代だった。
1993年/ファッション文化研究誌 装苑アイ/ 文化学園ファッション情報センター
1993年/ファッション文化研究誌 装苑アイ/ 文化学園ファッション情報センター
0歳から8歳までを対象としたベビー服、トドラー服、キッズ服を中心に子ども服ブームの勢いは止まることがなかった。
1982年から1994年までの間に、「BABY Dior」「BABY GUESS」「ケンゾー アンファン」「モスキーノ ジュニア」と数々のブランドから子ども服が展開され、売り場を彩った。まるで大人服のミニチュア版のようなファッショナブルな洋服たちは、消費文化をリードしたポスト団塊世代である親たちを夢中にさせた。
1993年/ファッション文化研究誌 装苑アイ/ 文化学園ファッション情報センター
1993年/ファッション文化研究誌 装苑アイ/ 文化学園ファッション情報センター
しかし、華々しくオープンした子ども服のファッションビルも、94年以降は不況の煽りを受けて閉店する店が相次いだ。そして、97年から徐々に郊外に大型店が進出し、子ども服の流行や価値観も、時代とともにまた変化していった。
当時の専門家たちは、過熱する子ども服ブランドの現象に対して、子どもは親の着せ替え人形ではないと苦言を呈したこともあったが、子ども服ブランドの市場がひとつの時代を築いたことは確かだった。

周囲の反対の中、動き出した「ANGEL BLUE」

子ども服ブームがピークを迎えた1991年に、ナルミヤ・インターナショナルは、前社長・成宮雄三氏が発足した。元々は広島の呉服問屋・成宮織物としてスタートし、1979年に株式会社ナルミヤに商号変更して後、ナルミヤは婦人アパレル市場へ参入した。
80年代のナルミヤは、「K-ファクトリー」や、「b.クラブ」といった婦人服を中心に販売していたが、大量に在庫を抱えていた状態だった。
しかし、成宮雄三が常務として入社したことにより、状況は一変する。彼の機転の利いたユーモラスな発想で、K-ファクトリーは瞬く間に人気ブランドになり、同ブランドはついにニューヨークでもデビューすることになった。
1986年/週刊セブンティーン特別編集 原宿ジョイフルマップ/集英社
1986年/週刊セブンティーン特別編集 原宿ジョイフルマップ/集英社
そして、85年に立ち上げたベビー・トドラーが対象の「MINI-K(ミニケー)」で、ナルミヤも子ども服業界に進出することになる。
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