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千葉雅也:悪のファッション、歴史の終わりと闘うファッション

テクノロジーの進化や地球環境の変化によって目まぐるしく変化する、私たちの衣服/身体環境。そんな今日におけるファッションの「作ること・纏うこと・届けること」とは、どういった状況にあるのでしょうか?Fashion Tech Newsリニューアル記念特集として、衣服や身体をとりまく技術的/社会的状況の変容について、また、そこから描きだされる未来像について、5名の方々へのインタビューから考えていきたいと思います。
PROFILE|プロフィール
千葉雅也

哲学者、批評家。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。フランス現代哲学の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出文庫)、『勉強の哲学――来たるべきバカのために』(文春文庫)、『意味がない無意味』(河出書房新社)、『アメリカ紀行』(文藝春秋)など。デビュー小説『デッドライン』(新潮社)で第41回野間文芸新人賞を受賞。

今日のファッション文化、および衣服や身体を取り巻く環境

無駄を楽しむことの消失

ファッションについてまず言えることは、今僕はあまりファッションに興味がなくなってしまっているってことなんですよ。欲しい服があまりない。とにかく一通り出尽くしちゃったと思います。ハイファッションとストリート的なもの、あるいは労働服だったりとのミックスがどんどん進んでいって、秩序の転覆が起きて民衆化していったわけですが、そこから考えられるスタイルはおおよそ2000年代に終わってしまった。あとは昔のアーカイブを再解釈するというか、再解釈でもなく、リバイバルですよね。
そういう次第で、ファッションの様々な文脈を横断して遊ぶスリルがなくなってしまったと感じています。ところで今、ファッションの産業構造全体に対する批判が溢れています。つまり「無駄に消費するのは良くない」「材料を大事にしましょう」「地球を大事にしましょう」みたいな。でも、そのような道徳的、倫理的な方向に新しいファッションを見出すのは辛気臭いですよね。息苦しいとも思います。かつての「無駄を楽しむ」ようなファッションの余裕が、今はないですよね。その一方で、ネオリベラリズムの中で新興富裕層が、ただ高価なだけのコラボアイテムのようなものを自慢する風潮もあって、二極化している。
中間層が背伸びをしながら文化を耕していくような形が、もう難しくなってしまっているのは、日本が貧しくなったからですよね。2000年代はまだ、ここまでの状況ではなかったと思います。

何にでもなれるという幻想

(バーチャルファッションなど、現実の自分の身体に囚われない仮想の身体という考え方に対して)人間にはどうにもならないものがあるというのを認めた上で、それとの緊張関係の中で遊びを考えるのが僕のマイノリティポリティクスです。何にでもなれるというのは耳に心地よいですが、幻想です。自分が持っている様々な限界やどうにもならなさとどう付き合うかに、人生の苦味を含んだ面白さがあるわけです。
今日、自分の限界はあたかも乗り越え可能で、人生はどうにでもリセットできるかのような幻想が振りまかれているのはすごく問題だと思います。どうにもならないことが人生にはあるということを、無くそうと思っているわけですよ。こういった幻想の中にいると、人間関係の気に食わないことの許容度が低くなっていくんじゃないでしょうか。

つまり自分の人生の中の否定性を我慢できないということが、今、社会全体に広がっている。思い通りにならないことを全て思い通りにできるかのような幻想に、とにかく資本が投下されているという状況があります。これはもう、人間性の否定だと思いますね。 

最先端テクノロジーの普及と、衣服や体をめぐる状況

SNS向けの「わかりやすさ」

SNSの問題のひとつは、目立つものばかりがウケるようになっていることです。これはよく指摘されることだと思います。たとえば、最近のロゴブームは、80年代のキャラクターブランド的なデザインのリバイバルみたいにも見えますが、SNSで目立つからという理由もあるのでしょう。
要するに、パッと見てステータスが分かることに特化しているわけです。全てが目立てばいいという刺激になっており、文脈を読むとか、微妙な佇まいにこだわるという話ではなくなっている。たとえば、シルエットというのはもっと微妙な問題のはずなのに、一時期のVETEMENTSのような極端なビッグシルエットは、結局SNSでわかりやすいわけです。
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#Sustainability
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