2021.07.30

朝吹真理子「服を描写する言葉、ファッションの固有性」

#特集002「言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ」
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ファッション研究者、京都精華大学デザイン学部准教授・蘆田裕史氏とお送りする特集企画「言葉とイメージ:ファッションをめぐるデータ」。今回は、小説家の朝吹真理子氏をお迎えし、スタイリングと言葉の関係について、蘆田氏との対談というかたちでインタビューを行いました。

小説のなかで描かれる「ファッション」とは、そこで用いられる言葉とは?ファッションにおける言葉とイメージの経験をめぐる探究として、小説のなかでの表現をめぐって対話を展開していただきました。

PROFILE|プロフィール
朝吹真理子

1984年生。慶應義塾大学大学院前期博士課程修了(近世歌舞伎専攻)。2009年、『流跡』でデビュー。2010年、同作でドゥマゴ文学賞を受賞。2011年『きことわ』で第144回芥川賞受賞。2013年、劇作家・飴屋法水との共同創作『いりくちでくち』を発表。2018年、初の長編小説『TIMELESS』を刊行。他にエッセイ集『抽斗のなかの海』『だいちょうことばめぐり』(写真・花代)がある。

PROFILE|プロフィール
蘆田裕史

1978年生。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位取得退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、現在、京都精華大学デザイン学部准教授/副学長。専門はファッション論。著書に『言葉と衣服』(アダチプレス、2021年)。訳書にアニェス・ロカモラ&アネケ・スメリク編『ファッションと哲学』(監訳、フィルムアート社、2018年)などがある。ファッションの批評誌『vanitas』(アダチプレス)編集委員、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。

人間にとっての衣服

デザインされたものを纏い、存在する人間
蘆田:

僕自身、ファッションの言葉の曖昧さにずっと悩んできました。修士論文を書くときにも、「ファッション」と「モード」という言葉が曖昧に使われている状況に違和感を覚え、なんとか定義しようともしました(結局できませんでしたが)。コレクションのレビューでも、「エレガントなコレクションだった」というような表現がされますが、そもそもエレガントって何なのか。生地が長くてひらひらしていたらエレガントなのか。コミュニケーションを成立させるためには言葉の定義が必要だと考えて、『言葉と衣服』を執筆しました。

今回朝吹さんにお話を聞きたいのは、ファッションを言葉に置き換えるときになにを考えているのか、どこを見ているのか、といったことです。デザイナーやスタイリストとして服を生業にしている人たちとはまた違った視点をお持ちではないかなと思いまして。朝吹さんはファッション誌の『GINZA』で「デザイナー訪問記」という連載をされるほどファッションがお好きなのだと思いますが、そもそもなぜファッションに関心があるのかをまずお伺いしたいと思います。

朝吹:

今日はありがとうございます。人間がデザインされたものを着てしか、ひとりのひととして存在できないことが、すごく面白いと思っています。以前、飴屋法水さんと話していたときに、飴屋さんがしみじみ「デザインされていない髪型の人はいない」という話をしていました。確かにそうで、生まれたばかりの赤ちゃんは、ある程度育つまでは髪はそのまま、デザインされていない状態が多いと思うけれども、伸ばすのも、切るのも、家族がお鉢被せて切るにせよ美容院にいくにせよ、誰かの手が入る。生まれたときからずっと伸ばしているというひともいると思いますが、それもまたつくられています。人間は髪の毛ばかり伸びて、他の毛は、多少整えたり抜いたりしますが、しなくてもそこまでは困りません。でも髪は困りますよね。ヌーディストも、自然に還る意思があるのだと思うのですが、自然な裸というより、1年中裸でいるのは、獣毛もない私たちには体温も調節しにくいし、不自然なことでもあるので、意思を持って裸でいる感じがします。

私はパジャマも、家着も、外着も、結構分けるのが好きで、日に何度か着替えているのですが、飴屋さんはコートのまま寝ていたりすることもある。でも、というか、だからなのかわからないのですが、飴屋さんの服は、とてもおしゃれだし似合っています。たまに飴屋さんのコートが置いてあると、抜け殻にみえたりする。山中でも、新宿で会うときとかわらないシングルコートにナイキの布地のスニーカーで修験道をひょいひょい登っていたりすると、飴屋さんの衣服が獣毛にみえたりもします。私は全身山仕様の格好でぜいぜい言っているのに……。そんな飴屋さんでも、やっぱり誰かがつくった服を着ている。でも、誰かが作った服だけれど、飴屋さんその人の服でしかないようにみえる。その両方が面白いなあと思います。

なぜ、ファッションに関心があるかは、あまり考えたことはないのですが、人がつくったものに関心があるからでしょうか。どんな服をあわせて着ているのか、どんなところに食べ物のシミがついてるのか、つきたてなのか、日数がたっているか、ピンピンにアイロンを当てたものだけ着たい人なのか、着る人の着こなしをみるのも好きです。

私はファッションが好きですが、じぶんのことをおしゃれな人だとは思いません。むしろちょっとイモいと思っています(このイモいという言葉も不思議ですね)。でも、ファッション誌見たり、コレクションの動画みたり、友人と、あの服が可愛いとか、ああだこうだ言いながら歩くのが好きです。会う人が、どこのブランドの服を好んで着ているかも、その人の生活を知る手がかりになるとは思いますが、その人がどんなふうに着こなしているか、とか、どんな気分で今日の服を選んだのか、むしろ特に考えていないのか、とか。ボタンのほつれ、シワ、におい、そういう、着替えて家の外に出て会うまでの時間を、あるいは見つけて買って一張羅から脱落して普段着になってきたのかなとか、着ているお洋服越しに時間経過を妄想しています。

蘆田:

ファッションの研究者のなかには、現象としての流行や、人が服を着る理由に興味があっても、自身は「おしゃれ」に気を遣わない人、ブランドやデザイナーに興味のない人も少なくありません。

朝吹さんは人工物としての服にも一定の関心をお持ちなんですよね。「デザイン」という言葉を使っていらっしゃるように、誰かが意図を持ってつくった創造物として服を見ている部分が大きいのでしょうか。

朝吹:

ファッションデザイナーがどんなふうに服をつくっているのかとても関心があります。ただ最近は、ファッションについて語りにくいムードが漂っていると思います。そして私自身も、ファッションは好きだけど、産業としてのファッション業界の凄まじいサイクルのはやさには、疑問をもっています。そんなにいっぱい人って新しいものつくれるの?と思います。

消費の問題も大きいです。以前、哲学者の千葉雅也さんと対談をしたときに、千葉さんは、今ファッションについて語ることは、所得と階級の問題になってしまう、と言っていましたし、私もそう思います。大量生産の安い服を批判すると、安い服しか買えない場合がある、という話になっていったりします。たしかに安い服は家計的には大変助かります。ファッションについて語るとき、産業について、経済について、そういう仕組みのことも考えないと話しにくい感じになってきたなあと思います。ちなみに小説の原稿料は、昭和から変わっていない、という話を聞いたことがあります。いまの消費税は10%なのに!

ずっと欲しかった靴を買うとき、衝動買いしているとき、よくわからない無敵な気分になったりします。基本的に欲望を刺激されて買うので、買い物をしていることを話すのは、ちょっと後ろめたかったり、罪悪感があったりする。でも、このことを、どう考えていけばいいのかなと思うのですが、清水買いとか言いますが、そういう向こうみずな買い物は快楽的です。私も含め、みんながレベルの差はあれ、依存症になっている状態。でも、こんなにものが溢れて、数ヶ月後に半額、70%、すぐ値引きされて売られたり捨てられてゆく。それはおかしいですよね。デザイナーだって望んでいないと思います。このままでいいわけでは決してない。人が服を着る喜びと、産業のありかたの、バランスが難しいです。

すごく昔、パリコレに行ったときに写真家の方と回ったんですが、その方が言っていたのが、人間は生きるためだったら5着くらいしか必要じゃないのに、無限に欲望が増える。モデルの女の子が最も似合う服として作られた服が、実際には一部のモデルを除いて、そんな服は、ショーのあいだしか袖を通せない。高すぎて買えない。実際に服をたくさん買って着ている人は、ブランドからは紹介したくない人だったりする、など。グロテスクだなと思って聞いていました。でも、その写真家の方が言っていた、モデルの人が一番服が似合うかどうかは私は疑問に思いますけれど。

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人となりを捉える糸口としての服
蘆田:

人の服を見るときのポイントはどんなところにあるんでしょうか。

朝吹:

小説を書くときには、登場人物が着ているお洋服は、わりと細かいところまで頭の中ではみえています。その人が、トイレ掃除をそのくらいの頻度でするか、がん検診に行く人かどうか、部屋に植物を置いているかどうか、みたいなことと同じような感じで、その人のことを知りたいと思うとき、着ている服がみえてきます。この登場人物にはこんな服を着せよう、ではなく、この人はこういう服を着ているんだなあ、と喫茶店で隣に座った人を見ている気分で、姿がやってきます。でも、ここは小説の面白いところでもあるのですが、服を細かく描写しすぎると、小説の流れが遅延してしまうので、見えていても書かないことが多いかもしれません。服そのものを見てるというよりも、その人の「気配」として服を見る気がしています。

登場人物のことを自分で作ってきた人達というよりも他者だと思っていて、外にある人が体の中にやってくるような感覚があるんです。なので、その人のことを知りたいと思うと、この人は夏になったらどういう格好するかなとか、女の人だったときにはヒールは何センチのものを履くのかなとか考えています。自分で着させるのではなくて、こういう服を選ぶんじゃないかとかと思ったりして、小説の中の登場人物がゆっくり出来ていく。

実際に友達に会った時にそのブランドは〇〇だね、かわいいねー、みたいな話もしますが、友達の着こなしをみるときも、シワやシミ、寝癖とか、寝癖がよくある人が今日はピッと整えているぞ、とか、口紅の色と服が同じトーンだ!とか、珍しくカジュアルなスニーカー履いてるな、とか、何度も会う中での差異を見ているような気がします。

服の固有性

光のなかに置かれた服


蘆田:

あらゆるものと同様に、服もさまざまな要素から構成されています。服を袖と身頃と襟の組み合わせと見る人もいれば、素材に着目する人もいるだろうし、色や柄、あるいは形で認識している人もいます。そこで質問なのですが朝吹さんが小説を書くとき、服をどんな要素から構成されたものと見ていますでしょうか?

朝吹:

小説を書くときは、登場人物のワードローブが見えます。うっすらしか見せてもらえない場合もありますが。書くときは、場面によって、服が肌にまとわりつく感覚を描きたかったり、素材感そのものだったり、繊維そのものの見え方だったり、作品の場面によって変わってくると思います。

自分で服を見ているときは、光を大事にしている気がします。ランウェイ、プレスルーム、実際のおひさまの下、暗い喫茶店、夜の寝室、一着で全然違ってみえます。だから写真で見ても全然わかんないなあと思います。オンラインでも服を買ったりしますが、けっこう想像と違ったりしています。だから洋服を選ぶとき、できるだけ、室内室外両方の光をみたいと思っています。本の装丁を決めるときもそうしています。光がいっぱいのところだと惹かれるけれど、室内だとそうでもない、とか、あります。

蘆田:

なるほど。光や光の反射を見ているというのは、小説で服を言語化あるいは描写するときも同じなのでしょうか?

朝吹:

すごく当たり前の話かもしれないですけど、たとえば部屋の調光が低いときと明るいときでは、登場人物の光の感じ方によって描写も変わる気がします。小説の登場人物が着てる服は動きが見えて、それをカメラで追いかけるように書いてるので、自分でコントロールがうまくいかない。描写しようとすれば、いくらでも長く書けるので、なるべく見過ぎないようにと思ってるところはあります。

服の情報量の少なさ
蘆田:

光によって変わるというのは、服以外もそうなのでしょうか。僕は服って情報量が少ないとつねづね思っているんです。たとえば、映画は物語、音楽、俳優の演技、映像の編集などさまざまな情報がありますよね。けれども、服は情報量が少ないからそれについて論じること、認識することが難しい。だからこそ、そこにどんな情報を付加するかが重要になる。誰がその服を着るのか、誰が撮影するのか、どの服と組み合わせるのかによって印象が変わる。ピカソの同じ絵が図録によって(つまり撮影者によって)印象が変わると問題ですよね。情報量の少なさは服のひとつの固有性だと思うんです。

今、僕は美大のファッション科で教えているのですが、ファッションって服を作るだけではまだ50%でしかなく、残りの50%でイメージを作らないといけないとよく学生に言っています。光によって、環境によって、服が変わる。これは、ある種の服の固有性なのかなと思うのですが、どうでしょうか。

朝吹:

音楽もレコードやCD で録音されているとはいえ、やっぱり1回ごとに違う音を聞いているという認識があるので、お洋服もそうじゃないかと思います。たとえば、美術館で、この間は、ボレマンスとマンダースの二人展をみましたが、21世紀美術館の自然光が入る素晴らしさを堪能しました。朝見ても、夕方見ても、夜見ても、最高。時間帯で作品の感じ方が全然違う。お客さんの入る人数でも違う。

ただ、お洋服はそれ以上に、着ている人で全然違うと思います。たとえばまめちゃん(mameの黒河内氏)と私だと、コートもニットも靴も同じでおでん屋さんに行ってしまったことがあったのですが、お店の人が気を遣ってくださっただけかもしれませんが(笑)、同じ服を着ているころに気づかれない。それはやっぱり、背丈も顔立ちも違うのもありますが、何より、歌舞伎とかでいう仁(にん)のようなものが違いすぎるんだと思うんですよね。

ちょっとずれるかもしれませんが、双子コーデが大好きで、街中で女性二人のおそろいをよく見てるんですが、同じであればあるほど差異が際立つ、なぜか双子から離れていってる気がするんですよね。ちょっとした着方の違いで、パッと見は同じ服だと分かるんだけど、全然違って見えてくるのが面白いですね。

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言葉の可能性と限界

服を描写すること
蘆田:

言葉の可能性、あるいは言葉の限界について、もう少し聞いてみたいです。小説って、見るものや聴くもののすべてを言葉に置き換えていくという行為ですが、言葉にできるものとできないもの(しにくいもの)があるかと思います。服だけにとどまる話ではありませんが、言葉で世界を描写するにあたって、言葉の(不)可能性についてどのように考えていますか?

朝吹:

言葉で書いてるけれども、言葉のことをよく知らないと思っています。海みたいなところに潜って、泳いでいる言葉を捕まえにいって、小説を書いている気がします。いつも言葉が遠いものだと思っています。ひとつの言葉がちょうどぴったり充足して当てはまるっていうことはほとんどなくて、いつも過剰か足りないかみたいな感覚を持ちながら、やっています。

小説を書いてる時は、その先に景色が見えたり登場人物の皮膚の感覚が伝わってきたり、臭いがしたりして、それが先だから言葉が先に出てくることはほとんどなくて。言葉というよりは、登場する景色や人の声を大事にしてるようなところがあります。だから、言葉そのものについて考えるというよりも、その浮かんできた場面に一番近い言葉を探しに行っていますが、言葉でしか小説は完成しないので、言葉はいつも謎だなあと思って付き合っています。

蘆田:

事物の説明ということを考えると、言葉で説明するかイメージ(絵や写真)で説明するかの2通りがありますよね。抽象的なことや概念的なものは、イメージよりも言葉の方が説明しやすい。一方で、具体的なこと(ステッチの太さやピッチとか、モティーフの配置される位置とか)はイメージによる説明の方が簡単です。服や服装を言葉で描写しようと思っても、なかなか難しかったりします。朝吹さんの言葉の使い方から言葉の可能性(あるいは不可能性)を考えてみたいと思って、さっきのような質問をしました。

朝吹:

登場人物の着ているセーターとかのことを書き出すと、やっぱり描写は果てしがないから。糸の目の細さまで入っていって、スローモーションみたいにゆっくりになっていく。服を着ているけれども、着ていることに触れないで進む方が、物語は多分スピード感が早くて。ちょっとでもそれを説明すると、その分、停滞するというのが面白いなと思います。

服が有している文脈
朝吹:

たとえば街でトレンチコートを見ていても、トレンチコートの一部に第一次世界大戦で死体を運んでいたときのモチーフが残ってるっていうのを知ってから、トレンチコートを着ている人を見ると、その人が死んだときの姿を思い浮かべるようになっちゃって、トレンチコートが苦手になったんですよね。今はもう、それを知らないで着てるわけだけど、すごく想像してしまいます。

蘆田:

服にまつわる情報は少ないと先ほど言いましたが、歴史的なことやその服の持つ背景って、実は服にまとわりついてるんですよね。かつて、それを着ていた人の亡霊のようなものが。ボルタンスキーの古着を集めた作品が異様に見えるのも、それを着ていた人の残存するなにかによって、ある種の不穏さがあらわれてくるのだと思っています。

朝吹:

この間、大きな会場のセールに遊びに行ったんですけど、私も買い物をして楽しんだのですが、でも同時に、サンプルセール会場はなんだか悲しい。ドナドナがいっぱいいるような感じもありました。可愛いはずのバッグや靴が、ドサドサ置かれて、みんな大きなビニールパックにガサガサキープ品を入れて、最後にもう一度確認して、やっぱいーらないってぽいっとワゴンに戻されている。セールじゃないと買えないものを買える喜びってあると思うし、狩猟しに行くみたいな感じで、私もセールだあ!え!こんなに安く?と喜んでいたけど、同時に、こんなにすぐセールになるのはいくらなんでも早すぎると思いました。でも私も買っているので、私もそのサイクルを支援していることになるのですが。

蘆田:

あれだけランウェイで飾りたてられたのに、それが終わったらこちらへどうぞみたいな。

朝吹:

みんないいものをつくりたいし、買ってくれる人に大事にしてもらいたいと思っているはずなのに。古本屋に行くときは100円ワゴンの棚もお宝探しの気分になるので、サンプルセールも、自分にとってのお宝探しの側面もあると思うのですが、ゴージャスに飾られていたはずのものがなぜかここに流れてきちゃった、という、零落したような、墓場のような、物悲しいムードを感じる。逆に最初から粗野に扱われていたものだったら、そんなに暗い気持ちにはならなかったと思います。高低差が激しすぎたんですね。

蘆田:

その服の引き取り手がいなかったから、つまり誰にも所有されなかったからなのでしょうか。古本は誰かが一時的にでも持っていたものがなんらかの理由で手放されたものですが、サンプルセールに並ぶ商品って、個人の日常生活で着てもらうことことがなく役目を終えてしまったものたちですよね。誰かの生活のなかで着られるために作られたはずの服がだったのに、誰かの生活にとけこめなかった物悲しさみたいなものがあるのかもしれません。天寿を全うできなかったというか…。

ファッションの面白さ/難しさ

ビジネスシステムの抱える問題


朝吹:

誰かの手に渡る最後の場所としてサンプルセールがあるのだとしたら、いい場所でもあるかもしれませんが、服の値段が、半年、1年過ぎると大きく下がるのは、変だなと思いますね。

蘆田:

大げさな言い方かもしれませんが、セールってファッションビジネスにおいて諸悪の根源なのではないかと個人的には思っています。自分がつくったものを、半年もたたずに自ら価値を下げるというのはやっぱり不健全ですよね。

朝吹:

セールじゃないと買えないぐらい高いから、セールを待っている気持ちは、お財布事情としてわかるのですが。10年前に書いた小説が、10年前なので1000円引きますみたいなのはないわけですよね。

ショーも大規模すぎると何が何だかよくわからないなあと思います。あと同じ日にみんなが同じものをインスタにアップして、そしてそれはすぐ忘却され、振り返られることがない、というのも、ファッションを逆に安売りしてしまっているようにも見えます。数年前、仕事でパリに行ったとき、こじんまりした、でも作り手の目の行き届いた店舗でみた、苔がいちめんに敷いてあるショーは、服もよく見えて、お客さんと作り手に一体感があって、本当に素敵でした。そのくらいの規模感がいいなと思います。そういう服を5年10年と着たいです。それを達成するにはある程度の所得が必要になるわけですが……。

ファッションが好きだし、好きなブランドがある。でも、新しいコレクションがばんばん出て、先シーズンのものは、セールに流れてゆく。新しいものを早いペースで作りつづけられるのも不思議に思ったりします。ファッションが好きでいたい、でも、買う側として、どうしたらいいのかなと、よく思うんですが、蘆田さんはどうでしょうか?

蘆田:

価格を下げるために、売れるかわからなくても生産数を増やして工賃をおさえるというやり方がとられることもありますよね。売れなかった分はセールで原価回収できればいいや、みたいな考えで。でもやっぱり大量生産を前提にしてものを作っていくというのは、もう難しいと思います。

僕たちは既製服を買うことの手軽さに慣れきってしまっていますが、受注生産のようなシステムに戻ることも考えないといけないかもしれないと思っています。そういうブランドも実際増えていますし。新しいものを作る意味がどれだけあるのかを考えるデザイナーも出てきているので、必要な人に届くだけのものを作るという前提が作られていくのかなと。

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ファッションの功罪
朝吹:

ファッションの軽薄なところも好きなのですが、でも、花から花へと移ろうにはものが必要で、そうするとものが余って……。先ほども話しましたが、ファッションの話をすると結局、貧困、階級の話になる。享楽的なファッションの話は、難しいですね。いまのファッションシステムを全部肯定すれば資本主義を突き進むことを肯定することになる。それは繁栄のようでいて自壊です。でも今までのファッション産業の規模だったからこそ、面白かったり育った文化もある。

蘆田:

伝統産業を残しましょうみたいなことも、無自覚に言えない部分がありますね。大衆文化的なものであれば残したらいいと思うんですけど、高級品は権力者や富裕層が庶民から搾取をして格差が生まれないと消費されることがなくなってしまう。文化を残すといえば良いことのように聞こえるかもしれないけれど、それを経済のなかで成立するものとして残そうと思うと、格差あるいは搾取の構造も残していく必要が出てくるようにも思います。

朝吹:

みんな罪なく生きていきたいという気持ちが強いけれど、罪をなくせば、また享楽的にやれるということでもないような。ファッション業界は今までの罪が深かったために、罪を減らそうしているけれど、エコファーにすれば万事オッケーでいいのかとか、それって内容が変わっただけで、結局同じペースでものをつくりつづけているのではないかな、とか思います。

バランスがとても大切なのだと思うのですが、今、最もそれが難しいですよね。わかりやすさが大事になっていて、やってる感をいかに出すかという感じもします。

蘆田:

友か敵か、みたいになっていますね。声をあげないのはマジョリティの味方をしているのだと同じだと言った発言もよく見ますが、それが行き過ぎるとちょっと息苦しい世の中になってしまいます。

AIによる創作
蘆田:

最後にお聞きしたいのはベタな話で、猿がずっとキーボード叩けばシェイクスピアの作品を作れるみたいな話がありますよね。猿ではほぼ不可能かもしれませんが、AIを使えばその可能性はかなり高くなるはずです。AIが発展した社会のなかで、文学はどうなるとお考えでしょうか。

朝吹:

AI がつくった小説が賞の一次選考は通るけど、その先は通らないという話を読んだことがあります。だから、面白いものが出来るんじゃないかなと思っていますが、でも読んだ時に、この作者はどんな人なんだろうと考えたりするじゃないですか。それがAIだとなったときに、今だと、読み手が、がっかりしたりしそうだなと思います。

読み手が、AIが書いた小説を、人間が書いた作品と同じように受け止められるのかどうかだと思うんです。個人的には読みたいし、面白かったら楽しいですよね。

蘆田:

階級とか格差の話でいえば、ものをつくり出す仕事って、相当過酷な労働じゃないですか。もし、そういった文化を生み出す仕事をコンピューターができるようになるのであれば、労働問題や搾取の問題はある意味では解決されるのかもしれない。もしかしたらそんな世界をユートピアとして捉えることもできるのかなと思ってしまったりもします。

たとえば週刊連載を抱えている漫画家さんは、毎週の締め切りのために死ぬような思いで作品をつくり続ける仕事ですが、ワークライフバランスが叫ばれるなかで、本人の意志だから過酷な労働環境に身を置くことをよしとするというのは、なかなか難しいですよね。ファッション業界でも、コレクション前は残業が増えるみたいな状況もありますが、フランスなんかはそこにも規制が入ると聞いたことがあります。人間が極限まで努力してつくるのがいいのか、コンピューターとかAIにある程度任せて、人間はある程度楽しい生活を送るのがいいのか、どっちなんだろう、と悩んでしまいます。無駄に大きな話ですが…。

朝吹:

どんなにつくっても、それでもつくりたいのが人間だから、AIがつくってても、人は、ずっとつくってしまうんじゃないかなと思います。つくる人しかいなくて、受け取る人が誰もいなかったから怖いですね。つくったものを読んで、いい感じに褒めてくれるAIが出てきたりして(笑)

画像: 収録はzoomにて実施されました
収録はzoomにて実施されました

Photo by Teruaki Tsukahara

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