2021.10.22

【対談】冲方丁・遠藤謙「価値観の変化をもたらすための、常識の安心感とラディカルな自由さ」

#特集003「身体/衣服と機能」
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ロボットや義足の研究者であり、株式会社Xiborg・遠藤謙氏とお送りする特集企画「身体/衣服と機能」。今回は、作家の冲方丁氏をお迎えし、対談を行いました。

共に身体に対する先進的な価値観を持ち、スペキュラティブな提案を作品とプロダクトという異なるアプローチで提示する冲方氏と遠藤氏。そんな両氏が交わした、障がいをめぐるまなざしとテクノロジーの関わり、価値観の変化をもたらすために必要なアプローチまで、多岐にわたる対話をお届けします。

PROFILE|プロフィール
冲方丁

作家
1977年岐阜県生まれ。1996年『黒い季節』で角川スニーカー大賞金賞を受賞しデビュー。2003年『マルドゥック・スクランブル』で日本SF大賞、2010年『天地明察』で吉川英治文学新人賞、本屋大賞、舟橋聖一文学賞、北東文芸賞、2012年『光圀伝』で山田風太郎賞を受賞。ほか『戦の国』『麒麟児』など。

PROFILE|プロフィール
遠藤謙

株式会社Xiborg代表取締役
慶應義塾大学修士課程修了後、渡米。マサチューセッツ工科大学メディアラボバイオメカトロニクスグループにて、人間の身体能力の解析や下腿義足の開発に従事。2012年博士取得。一方、マサチューセッツ工科大学D-labにて講師を勤め、途上国向けの義肢装具に関する講義を担当。現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャー。ロボット技術を用いた身体能力の拡張に関する研究に携わる。2012年、MITが出版する科学雑誌Technology Reviewが選ぶ35才以下のイノベータ35人(TR35)に選出された。2014年ダボス会議ヤンググローバルリーダー。

障がいをめぐる価値観の現時点

「かわいそう」から、「かっこいい」「ずるい」に

遠藤:

冲方さんと初めてお会いしたのは、ビックサイトで開催された「攻殻機動隊 ARISE」の関連イベントでしたね。個人的にもっとお話を伺いたいと思い、その後、オフィスに来てくださったんです。テクノロジーをめぐる議論の許容範囲が広いので、僕にとっては自分のテクノロジーの探究範囲を広げてくれている存在です。

冲方:

私は色々な想像をめぐらせストーリーを抽出していくのですが、生の声に勝るものはないので、実際に人間と向き合っている遠藤さんからお聞きしたことを作品にも反映させていただきました。特に、「足が悪いままだと歩けないけど、義足にしてしまえば走れるかもしれない」と聞いたのがすごく印象的で、人間の価値観に鋭く問いかける一言だったと思います。今でも残っているフレーズで、今、義肢の方がどんな価値観や考えを持っているのか、ぜひ伺っていきたいと思います。

遠藤:

先日パラリンピックが開催されましたが、おそらく意図的に、今回は障がい者が頑張っていると報道されることが少なかったと思います。もう少し、競技として楽しもうと思う方も増え、見方も変わって来ているなと感じました。今まではチャリティ番組のような障がい者が試練を乗り越える感動ストーリーで、それも僕は否定するつもりはないですが、今回のパラリンピックでは違うことが起こっているなと。

そこにはやはり、テクノロジーが影響を与え、貢献している部分があり、SF作品で語られているような議論を現実が後追いできていると思っています。僕自身は速く走るために脚を切って義足にして出場するのはOKかと問われると違和感はないのですが、それが倫理的に許されているのかと考えると、自分の感覚はずれているのかもしれません。

冲方:

バスケットボールでしたっけ、出場資格として脚を切らないと問われた方がいたのは。

遠藤:

そうですね、出場資格がなくなった方がいらっしゃいましたね。

冲方:

そうしたら、切るという判断には至らなかったのですね。

やっぱり自分の身体の一部という感覚があり、使えないからといって障がい者の方もすぐ捨てられないというか、捨てるという感覚自体、今までの価値観とのせめぎ合いだと思うんですよね。歯はすぐ抜いてしまうじゃないですか、それは本物と見まごうものがパカッとはめられるからで、失った、捨てたという感覚はないでしょうね。

確かに遠藤さんがおっしゃっていたように、障がい者へのまなざしは、ずるい、かっこいいなど、より身近な感じになっているように思います。日本人はかわいそうなものを遠ざける傾向があるので、例えば手足のない子どもが一般の小学校にはなかなかいないのかといったら、他の親御さんがかわいそうだから見たくないということで排除されていったと思うんです。かわいそうとならなくなって、そこから価値観が変わってるんじゃないかと思います。

昔の義足の形状はぼてっとしたもので、昔、近所の喫茶店に毎日来ている片腕のおじさんがいたのですが、やっぱりぼてっとした義手をしていらっしゃって、子どもにとってはやはり怖い印象だったのだろうなと。それが今は義肢義足が洗練されて、「かっこいい」と言われる時代ですからね。心のどこかで自分も欲しい、特に年齢を重ねて歩けなくなったら欲しいと僕は思うんじゃないかと。そのときに僕はどんな価値観を持っているのだろうか、そろそろ脚を変えようかとなるのかは、まだ読めないですね。

価値観が変わる瞬間

遠藤:

僕は価値観が変わるというところにすごく興味があって、エンジニアである理由のひとつは、人間の価値観が変わる瞬間を演出したいというのがあります。義足が障がいじゃなくなる日というのが来るんじゃないかなと、自分は思っていますね。

今回の「Fashion Tech News」での特集では、ファッションという観点からもお話をしてきましたが、ファッションという分野は枠を超えてみせるということが文化的に根付いているなと感じています。レディー・ガガの服装は普段は誰も着ないけれど、ああいったものが受け入れられているというのはすごい文化だなと。

また、いわゆるSF、フィクションもそれが許されていると思いながらも、価値観が先行しすぎていると面白くなくなることもあると思います。価値観が変わる、変えるさじ加減が難しいと感じています。

冲方:

今回はファッションに対する議論も出て来ると思っていて、とても楽しみでした。ファッションは衣服を通じて文化を形成する、かつての社会では階級や属性を形成する道具でもあった。

ファッションというのは個人の都合、感性や背景に寄り添っていくものだと考えています。それこそ障がいをめぐる議論の中では、障がいといっても個人差が大きすぎて一概に言えないじゃないですか。背景も多様ですし、個性に向かう価値観ともいえるのでしょうか。昔はそれこそ「障がいも個性だ」なんてフレーズがありましたが、その時から当たり前のことをわざわざ言わないといけないんだなと思ってました。

個人的には、どうして障がい者が苦労しないといけないんだろうと思っていて、ちょっと工夫すれば活躍できるのに、なぜしなかったのか。だいたい肉体にまつわるものは、戦争後にどうしていったが関係してくると感じます。美容整形がなぜ生まれたかと言うと、第一次世界対戦中に顔に傷を負った方の救済として技術が発達して、それが今ではプチ整形なんて一般化しました。戦争が終わったあとに四肢がなくなっても社会復帰しましたというストーリーがあれば、今は苦労しなくても良かったのではと。

なので逆説的に、日本は第二次世界対戦後、障がい者を救済してこなかったんだなと思います。なかった/いなかったことにするようになりがちで、だから表舞台に出てきてもらうのも大変で、文化的罪悪感や後ろめたさ、都合の悪さ、そういったものがあった。それがようやく薄れてきて、何がだめだったのか、なぜ障がい者をかわいそうと思ってしまう価値観が根付いてしまったのかを客観的に意識できるようになってきたのかなと感じています。

(四肢を)失ってしまったことはしょうがいないですし、だからといって社会からいなくなってくれとなったら、それこそ社会としては成り立たなくなってしまう。それは失う可能性がある方すら、排除していってしまうことになりますからね。例えば糖尿病患者や腎臓病の患者も病気になった瞬間に社会から排除されかねない、そうではなく救済をして、当たり前のこととなって、誰もが可能性があることとして受け取れるようにしていくストーリーをもう一度作らないといけないんだなと、パラリンピック見ながら思いました。オープニングも羽ばたくみたいな演出で、それ自体は美しい物語なんですが、まだ羽ばたくという段階なんだと思ったのも正直なところです。

画像: アスリート向け義足Xiborg ν(ニュー)
アスリート向け義足Xiborg ν(ニュー)

テクノロジーが果たす役割

障がいという括りから、より個人に


遠藤:

僕はそこには優生思想的なものがあり、すごく危険だと思っているんですよね。障がいを持つ人を自分よりは劣る存在だというような先入観をもって生活してる人は結構数いると思っています。これは認知バイアスとして自尊心を育むために人間が本能的に持っているものだという人もいるし、人間が生きていくための本質的な理性として備わっているものと感じてしまう人は多い。

そうなると解決方法は様々にありますが、ひとつはテクノロジーが良い手段だと思っています。いわゆる資本社会のなかで、社会福祉をお荷物と思っている人がいるとしたら、そういう方が活躍する社会になっていないことの原因がある。そこに対してアプローチは色々とあると思いますが、テクノロジーがその場を用意できる、テクノロジーが果たす役割は大きいと感じています。

冲方:

今はテクノロジーで解決される物事の方が多くなりましたし、それくらいテクノロジーの力が強くなったということでしょうね。

昔は倫理観、道徳心、法律でやってきたと思います。江戸時代では障がいを持った方たちにあえて職業を独占させる、例えば盲目の人にだけ按摩鍼灸、高利貸しができた。高利貸しは盲人の特権だったのです。このように身分制度としてある程度、救済するシステムがありました。しかし、これだと当然、人生の選択肢が狭まってしまい、それを解決する方法がずっとなかったわけです。そこにテクノロジー、コンピューター技術とハードウェアの技術の発展が革命的に進んだおかげで、個人の選択肢を増やすことに初めて成功したんですよね。

今までは政治家、指導者、教育者など社会をデザインする人たちの役目だったものが、そこでの不合理性をどんどん合理的に解決していってた結果が今、まさに起きていること。つまり、個人という価値観に比重が置かれていっているんだと。

障がい者という枠組みではなく、個人の話と今後はなっていくのではないかと感じています。障がい者と括られる人は数多くいるけど、具体的にどこがどうなっているか、年齢や性別は?という話になってくるのではないかと。

前に遠藤さんから伺って印象的だったのが、「義足を使いこなすのも才能だ」というフレーズです。義足使いに長けた人とそうでない人で格差が生まれるかもしれない。僕が将来、脚が弱って義足にしようか迷ったときに、僕その才能あるのかな、毎日転んでしまうなら車椅子にしようかなと考えたりもします。あるいは将来、両足が義足でも転ばない自動バランサー的なものが備えられたら嬉しいなと。理想は勝手に脚に歩いてもらうことですね。

常識からの逸脱

遠藤:

実は乙武さんの義足を作るときに、冲方さんにお話を聞きたいと思っていたんです。乙武さんの義足を作ることで、どんな未来がくるのかなと。

我々は結局、いわゆる健常者の姿に寄せるような義足にしました。理由としては、国が関わるプロジェクトなので合理性が問われていたことと、乙武さん自身が求めていたのは共感、「誰かの役に立ちたい」ということだったんです。自分のような四肢欠損でも歩ける希望を与えたい、モデルになりたいと。では、“歩ける”とはどういうことなんだろうと考えたときに、本当は“歩ける”というなかにも色々な種類があると思うのですが、みんなの求めているものは、いわゆる健常者の歩行方法だった。
これに対しては、未来をつくっていくと思いながらも、我々が持っている先入観に引っ張られてしまったような後味が、僕の中では残っています。

冲方:

過去2000年、ともすると1万6000年くらい続いた常識にチャレンジしているんですからね。我々は人影という言葉に対して、頭が1つ、手足が2つと思い浮かべてしまいますし、信号機でも人間の四肢の揃ったマークしかない。歩行者を意味するシンボルがああいうものであることも、常識を全部変えていかないといけない。まだみんな歩行者用のシンボルに違和感を抱いていないわけですよ、あの形が人間だと思ってしまっています。

SFの世界だとヤギの脚を持った人や、毎日手の形を変える人、ロボットの中で生活しているサイボーグなどが登場することもあります。急激な変化は人を不安にさせると思いますが、ちょっとずつ人間の形は一様ではないとなる気がしています。

これは美容整形の世界で問題になってきていることなのですが、そのときの流行の顔にするから似たような顔になって、しかも人種的にありえないものになっているそうなのです。アジア人的な顔の特徴に西洋人的な特徴、黒人的な特徴をミックスした整形が流行っているらしいのです。

義肢義足が一般化していくときにも、一度は、大きな価値観に擦り寄っていってしまうと思うのですが、そこから「ああいう形の義足」とか「ああいう曲線美」とか、個性が花開いていくと思うます。仰る通り、人を不安にさせないためにはスタンダードな形状が安心するんでしょうが、僕なんかは移動できるなら正直タイヤでいいと思っています。ガンタンクみたいな体型でもいいなって(笑)

ラディカルな自由さ

冲方:

身体は形状自体がコミュニケーションとなります。それこそボディランゲージという言葉があるように肉体自体が相手に色々なメッセージを送るので、例えば僕が義足にすごい棘とかをつけていたら、他人を拒む、攻撃する、近づくなといったメッセージになってくる。

遠藤:

こういった身体をめぐる価値観に対して、他の人と認識の違いを感じることはありますか?冲方さんはネパールやシンガポールで育ったと聞き、そこで育った原体験による影響があるのかを前からお伺いしたいと思っていました。

冲方:

身体に関していえば、ベトナム戦争の被害に遭われた方が出稼ぎに来ていたこともあり、手足のない方、枯葉剤の影響で奇形の方も数多くいらっしゃいました。私がいたのは、そういう方たちを排除してなかった時代のシンガポールでしたが、当時から徐々に観光立国となるために排除を進めていったので、今はほとんど見なくなりましたよね。

ネパールなんかも手足がない方、目が見えないか方もいらっしゃいましたが、カースト制度があるので救済策として社会の箱に入れるという感じでしたね。乞食になったり、ずっと薪を割って暮らしていくような方々もいらっしゃいました。それは安定しているようにも思えますが、不自由ってこういうことを言うんだなと思いました。

僕が自由という価値観に非常に強いシンパシーを描くのは、こういった原体験もあるからだと思います。多分、遠藤さんは僕の感性と非常に近い、あるいはもっとラディカルに近い自由を獲得されているのではないかと思うんですが、他の人が咄嗟に受け入れられないものであるのもわかる気もしますね。

遠藤:

そうですね。これは絶対面白いだろうと自分が思うことに対して、周囲の反応との差に驚くことが乙武さんのプロジェクトのときにも多くありましたね。

冲方:

たとえば、どんな案があったのですか?

遠藤:

単純に空を飛ばしてみようというのはありました。乙武さんは体重が軽いので、ドローンで空中に浮かべるみたいなアイデアです。もしくは単純に歩くのであれば二足歩行は危ないですし、電動車椅子は既にあるので、ケンタウロス型みたいな一番安定するもので森の中を歩いてもらっても転ばないとか、もうちょっとチャレンジングなことをやりたいと思っていましたが、色々な事情で難しかったですね。

冲方:

そうなんですね、ロボットに乙武さんが軽快に乗っていることには未来を感じますけど。確かに乙武さんをドローンで浮かせたら、生贄のように見えてしまうかもしれませんね。人を浮かすというのは、人を吊るすようイメージに近くなって不吉なものを感じさせるきっかけになりかねない。おそらく浮いているときに義肢義足があった方がいいと思うんですよね、四肢がない状態で浮かせると不安を抱かせるので。それこそアイアンマンですね。「乙武さんアイアンマン化」とか言ったら良かったのかもしれません。

遠藤:

なるほど、SFすら利用するみたいな感じですね。でも乙武さんはダース・ベイダーなんですよね。ダース・ベイダーは四肢欠損している事実を誰も知らなくて、あまり盛り上がりませんでしたが(笑)

画像: Xiborgによる一般義足ユーザ向けの安価な義足
Xiborgによる一般義足ユーザ向けの安価な義足

未来に向けての変化

コロナ禍で感じたこと

遠藤:

こういったコロナ禍のパンデミックは想定されてましたか?

冲方:

いや、全然していませんでしたよ。そして、してなかったこと自体がおかしいことに後で気づきました。

通信と交通が発達すれば疫病が起きることは明確にもか関わらず、忘れていた感じです。恐らく医療テクノロジーや医療システムへの過大な信頼があったと思いますが、何もかも足りてなかった。今はただ慎む、通り過ぎるのを待つみたいな平安時代に等しいことをやっていますからね。遠藤さんは予想されていましたか?

遠藤:

いえ、まったく予想しておらず不意打ちでした。こういうことが起こった際に世界がどうなるか、似ているかはわからないですが、攻殻機動隊を思い出してしまうんです「村井ワクチン」というストーリーがあって、認可がおりていないワクチンをなぜか偉い人は受けているという。今のワクチン騒動を見ても、人は合理的に動かないんだなということを目の当たりにした感じがしますね。

僕はこれを面白いとは個人的には思わないですが、この合理的にいかないところが人間の面白いところであり、難しさでもある。世界的に共通の敵を迎えたときに、本当は団結して立ち向かわないといけないけど、人が合理的に行動するのは難しく、予測がわからなくなったとたんに未来に対する不安を感じて反ワクチンと盛り上がる。起こるべくして起こったというか、人間の凄さ、複雑さがすごく勉強になりました。

冲方:

合理的も多様化したと言いますか、反ワクチンの方はある種の合理性を持っているせいで対話もできないみたいなところがあると思います。何かを説明してくれるから、そういうロジックを構築することで安心を抱くのが人間ですからね。

遠藤:

そうなんですよね、人間って安定を求めてしまう、変化に弱く、自分もそうだったんだなと感じました。

冲方:

東日本大震災で東京へ越したときも、今後こういうことがあるから備えておこうと思っていたら、全然違う角度からパンデミックがきて、ちょうど10年おきに我々は何かに直面していますよね。9.11からも20年目ですし、東日本大震災が10年目ですし、現在はパンデミックですから、これから僕は10年ごとに常識が分断されてしまった層ができたと感じています。

どの時期に思春期をおくったかによって、不安の解消の仕方が違ってきているなと。それこそ9.11では敵がいたので不安の解消は敵で良く、東日本大震災の際の不安の解消は連帯だったと思います。みんなで頑張ろう、余裕がある人間が助けようみたいな連帯感があった。しかしながら、コロナの場合は完全に個に分断されましたからね。いよいよ解決する方法も、安心する方法もない状態となってしまって、今は探している最中なんだと思います。

ここでとりわけ深刻になっているのが貧困の問題で、ウイルスの問題と貧困の問題が合体しましたからね、これは今後読めない事柄です。みんなが何か安心するために一斉にやり出すことは、歴史上だいたいろくでもないことで、革命か戦争を起こすかですからね。実際に今は世界が戦争の準備に入っていて、やばい状態になってきたなと思います。

メタバースの可能性

遠藤:

戦争を減らす方法って、何だと思いますか?

冲方:

単純に経済的に結び合っていることですね。それをコロナが破壊したので、ものすごく危ないなと個人的には思っています。もう嫌ですよ、10年後に戦争ときたら最悪だと思っています。

遠藤:

コロナ禍で、技術者の間ではメタ・バース的な考え方が流行っているんですよ。昔でいうとセカンドライフのようにバーチャル空間の中に経済圏があって、その中で仕事したりと場所にとらわれず、究極はそこで税金を払って、収益を得て生活するみたいなことが考えられています。

冲方:

それはどれくらいリアルにできるのか、議論が進んでいるのですか?

遠藤:

どうでしょうか、僕の周りではメタバースでしか貧困は解決しないと言っている人もいますが、アフリカの方ができるのかなとも思ったりします。2000年頃からセカンドライフの考えはありましたが、今はそれよりも現実意味を帯びていて、Facebookもバーチャル空間を開発しています。日本でもVRチャットが大手で、イベントを開いてスポンサーがつき広告収入が集まるといった感じで、経済圏が存在していて一通りできるようになっています。でも、そこで生活できる人はやっぱり限られていて、うまく使わないと格差を大きくしてしまう、新たな格差を生んでしまいかねないと思いながら見ています。

冲方:

バーチャル空間の危ないところは、サーバーを持っている人に支配されてしまう点ですね。個人がサーバーを持たないことには全権利を預けることになってしまうので、それが銀行のような中立性をどうつくりあげるんだろうと思っています。デザイン次第では、将来バーチャル空間にいけますよと言われても、僕は拒否するかもしれないですね。

遠藤:

それはもちろんで、全世界の問題を解決するようなものではないと感じています。ですが一方で良いこともあるなと思っていて、四肢欠損の方はバーチャル空間では身体が制限されないこともありますし、人種の概念のないアバターを作って生活している人もいます。現実世界よりも多様な概念がゆるい世界が存在しているのではないかなと。

冲方:

そうですね、とりわけ全身不随の方はバーチャル空間が重要な“補助器具”--歴史上存在しないので表現する言葉が少ないのですが、VR空間によって救済される方もたくさんいると思います。それなら、いっそのこと公共機関並にでかでかとつくって欲しいですけどね。

遠藤:

VR空間では服が売られていて、アバターに服を着せることができるんですよ。人間がVR空間に求めるものは、現実に価値観があるものから生まれている。この事実からも、安心というところをつくっていかないと人間は変化していけないと思いますね。

義肢がファッションになる未来

冲方:

将来的に義肢義足を衣服として捉えるのか、肉体として捉えるのかで変わってくると思っています。例えば衣服の一部になったのはメガネで、元々は義眼に近い目のレンズの代わりです。カツラも肉体の一部なはずですが、ファッションとして活用されていますよね。義足も毎年モードが出るから、脚を変えたり、衣服や靴の感覚になっていくと受け入れられやすくなっていくのかなとお話を聞いて思いました。

遠藤:

面白いですね、両方の観点があるなと思いました。僕はどちらかと言うと身体よりの見方だと感じました。

冲方:

男性でもそうですが、とりわけ女性がそういった感性が強いのかなと感じています。綺麗な脚が欲しいとか、今流行っている最先端にあるもの、あるいはシックなプライドが持てるものが欲しいみたいな形です。なので将来的には、義肢義足も男性、女性、子ども、大人、ご年配者向けなど分かれてくるのではないかと考えています。

遠藤:

確かに傾向としては、男性の方がメカメカしいまま使う方が多いかもしれません。データをとったわけではないですが、女性は見た目を義足とわからないようにするような工夫を圧倒的にされる方が多いように思います。

冲方:

これも個性の話に戻ってくると思うのですが、今までは義足が障がい者バッジの代わりのような役目を果たしていて、弱者だからどうにかしなきゃとか、逆に悪人からすれば標的にしようなどとなっていますが、これからはそうではなくなってくるんでしょうね。

遠藤:

そうなると、共感を得ることが難しくなってくる時代だなと感じます。イベントで多くの人を呼びたいとなったときにも、何万人規模で呼べるのイベントは限られていて、オリンピックですら厳しい。そうなると、多くの人が共感するというよりは小さな母集団があって、それぞれがちょっとした共感を持ちながら寄り添っていくみたいな形で、経済合理性が成り立つようなものとなるのかもしれませんね。

冲方:

今、渋谷にいても服装はバラバラですからね、気合いの入れ方がバラバラだなと思います。それはすべてに言えますね、エンタメもそうですし、小説でもSF作品を読む人で、時代ものも読むという人はあんまりいないです。

こういった状況は今後、自分の身体をどう見てほしいかを考えていくことに繋がってくるのではないかと感じています。つまり、自分が自分をどう認識したいか。そういった意味で、僕は早く義肢がファッションになるといいなと思いました。

遠藤:

義肢を見る機会は増え、街中でも見慣れてきていると思うんですが、まだ特別視してしまうと言うか、日常の中には溶け込んでいない状態だなと思います。

変化に対する免疫

冲方:

それがどういうものかわからないから、どういう風に心配していいのかわからないということもあると思うんですよね。例えば義足の方が遊園地の絶叫マシーンに乗る際、「それ大丈夫ですか?外した方がいいんじゃないですか」と言われるみたに。一般常識を教え込む機関が学校しかないですが、学校はそういったことをほとんど扱わないですからね。

学校の障がい者教育は前近代に置いていかれているので、それこそ車椅子の方を連れて行って見世物のように扱うのではなく、当たり前のものとしていくのは本来は難しい話ではないのに。バイアスのせいで難しいものになってしまっています。

遠藤:

確かに、全部を現場に教えるというのは難しい。知人の研究者が「赤毛のアン」が大好きで、それに触発されて読んでみたのですが、1890年代のストーリーで、島にアンという不思議な女の子が引き取られてきて、全ての人がパーフェクトではなく何らかのバイアスを持っていて、やっぱり人間ってこうだよねって思ってしまいました。急に人間は変化できないなから子どものうちに教育しましょうと言っても全部は学べないとしたら、究極に見たことない人を見ても受け入れられるような、変化に耐えうる精神力みたいなのを僕はアンみたいに持ちたいなと思いました。

冲方さんでしたらどんな学校作られますか?

冲方:

僕だったら土地からひっぺ剥がしますね。小学校1年生の時点で転校です(笑)

3年くらいで場所を転々として、必ず留学してクラスメイトも全員国籍も宗教も違うのが理想です。そういった中で自分の常識が小さいんだなとわかれば、人生間違ったときに違う道にいこうかなとも思える。日本人はコミュニティが狭すぎて、もう自分は死ぬしかないなって思いがちですよね、本当はそんなことないのに。転機にならない教育は疑問だなと、僕は思います。

遠藤:

僕自身、すごく変化に強い側だと思っていたんですが、年齢を重ねたせいか変化に対しての免疫がないんだなと感じました。年齢と共に引き剥がせないものが身の周りについてくると思うんですよ、仕事だったり。責任もあるので離れるのは難しく、取り組んでいて楽しい仕事で面白くはあるのでですが、自分の視野が狭くなっているんだろうなというのはすごく感じています。研究者としてその視点は失いたくないなと、聞いていてとても感じました。

冲方:

大人の場合は何らかの責任っていうのが伴いますからね、そこでみんながいっぺんに変化を起こしたら、ありとあらゆるものが崩壊します。

肯定的な変化についていけないと大変ですよね。いまだにハンコを押したり、マンションのお知らせがメールではなくではなくポストに投函されるのがめんどくさくてしょうがないんですが、歳を重ねた方が多く住んでいるので、メールだと置いていかれてしまう方がたくさんいる。そういった方もなんとか頑張って変化しないと、どんどん不便な場所に追いやられてしまうなと感じています。もちろん僕自身も、変化を受け入れないと独り言みたいなものばかり書いちゃいますからね。そういう作家もいて、当時の独り言みたいな感じで時代を経て価値が出ることもあるんでが。それは老齢になったらやろうと思っています。

遠藤さんは、今の活動の手応えはどうですか?タイムスケジュール的にどこにいらっしゃいます?

遠藤:

手応えはなくはないのですが、ひとつ終えると課題が増えて、やったこともひとつの合理性に進んだだけで全てではない、いわゆる、山を登ったら違う山がたくさん見えたみたいな感じです。そういう楽しさはあって手応えはあるのですが、これで終わりではないですし、自分が全部の山を登れるとも思っていないので、自分が最も楽しめる山を見つけて、それに登り詰めたい気持ちでやっています。

冲方:

期待大ですね、これからが楽しみです。

#Wearable Device
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