2023.01.16

【リレーコラム】「自分のため」の「多様な美」?:ファッションの「ままならなさ」を考える(小口藍子)

PROFILE|プロフィール
小口藍子
小口藍子

お茶の水女子大学ジェンダー学際研究専攻博士後期課程1年。専門は社会学、ジェンダー研究、男性/男性性研究。現代日本社会での、メンズメイクや脱毛を始めとする男性の美容行動に関心を持ち、研究を行っている。

「とってもお似合いです! 細くていらっしゃるから、やっぱり様になりますね」
「お客様は二重なので、アイシャドウの色が映えて素敵です!」

服の試着室であれば、体型の細さ。化粧品のカウンターなら、二重のまぶたや肌の白さ。商品を勧めるコミュニケーションの一環で、商品をまとった身体のうちの「一般的な美の基準」にたまたま合致している部分を褒められることがある。大抵は曖昧に笑って流しているが、何ともいえない居たたまれなさ、疲労感を覚える。

「画一的な美」から「多様な美」へ

このような「褒め言葉」に私が感じる居心地の悪さは、そこから「細い身体に、色白で二重のまぶたの顔が望ましい」という容姿をめぐる規範が読み取れることに起因するだろう。しかし近年、フェミニズムの潮流やLGBTQ+を始めとするマイノリティの権利運動とも相まって、「画一的な美」を脱却し「多様な美」を尊重することが提唱され始めている。

大学院生の筆者に身近な例を挙げれば、ここ数年でいくつもの大学のミス・ミスターコンテストが廃止されたり、実施の在り方が見直されたりしている。(1)美容産業の広告からも、同様のメッセージを見て取ることができる。カネボウ化粧品の「KATE」は「自分を縛る、ルールを壊せ」というフレーズを打ち出し、次のように続ける。

「はみ出しちゃいけない」という、同調圧力。
「私はこういうタイプ」という、自己暗示。
「女らしく、男らしく」という、固定観念。

様々な「既成概念の檻」からぬけ出して、自由になっていい。
誰のためでもなく、自分をもっと好きになるために。
そう、KATEは信じる。(2)

押し付けられた基準に沿うのではない、「誰かのためでなく、自分のため」の多様なファッションの在り方。そこには「女/男はこうあるべき」などのルールから自由になる余地が、確かに存在している。その解放的な側面は肯定しつつ、一方で、「多様な美」や「自分のため」のファッション、という言説に、筆者は危うさも感じている。

放棄できない「美」

「美は多様だ」「どんな人も美しい」という言葉は私たち全員を、親切にも暴力的に、「美」のフィールドへと引きずり込む。藤嶋陽子は、多様な容姿を受け入れようとするボディポジティブの盛り上がりが、画一的な美の基準に抗いながらも別の美の基準を作り出していることを看破する。「スリムな女性よりもふくよかな女性が魅力的」という言葉が打ち出されることは結局のところ、美の基準を維持し、それに縛られ続けることを指す。

「『みんな平等に美しい』のだったら、そもそも身体像に美しさという尺度を適用しつづける必要はあるのだろうか」(藤嶋 2020: 304)。

さらに藤嶋は、美が多様化されていくことが、ファッション産業によってマーケット戦略へと転化されることをも指摘する。「ファッションを駆動させていくために、美という基準は放棄できない」(藤嶋 2020: 305)。まさしく上の「KATE」の広告のように、「多様な美」がファッション・美容産業と共犯関係であることは、否定できないだろう。(3)

また筒井晴香は、「多様な美」がファッションにおいて称揚されることに、容姿の美が「身体」から「能力」へとシフトする動きを見出す。「頑張ればだれでも美しくなれるという余地が生じることで、頑張らないでいることに、より積極的な理由が必要になってくるのである」(筒井 2021: 192)。「美を放棄することを許さない構造」(藤嶋 2020: 305)は、容姿やファッションで「多様な美」が実現することを褒め称えることによっても、強化されるのだ。

「自分のため」はあり得るか?

そして、多様な美を「誰かのためでなく、自分のため」に追求することは、果たして可能なのだろうか。私は私のためだけに装っている、と言い切れる瞬間は、本当にあるのだろうか。「誰かのため」と「私のため」は、くっきりと分けられるものなのだろうか?

これを考えるにあたって、磯野真穂による「自分らしさ」の議論を参考にしたい。磯野(2022: 163)はメディアに氾濫する「自分らしさ」の言説を分析し、「自分らしく」あるためには①大勢の価値観に対して抵抗したり、違う道を選択したりすること、②その選択が、他者からの強制ではなく、「他ならぬ『私』がこれをしたい」という意思のもとになされていること、の2つが必要だとする。

磯野は「ある動機が自分の内面のみから生じ、それに即する選択が外的要因の影響なくしてなされることなどあるのだろうか」(磯野 2022: 164)と疑問を呈しながら、「自分らしさ」のさらなる奇妙なパラドックスを指摘する。

それは、「自分らしさ」には大勢の意見への抵抗が伴う一方で、同時にそれが社会的に認められなければならないという点だ(磯野 2022: 165)。磯野の議論からは、「自分らしさ」とは自分ひとりだけで確立するものというより、他者との関係のなかで現れていくものであることが読み取れる。

とすれば、「誰かのためでなく、自分のため」のファッション、という表現は、根本的な矛盾を抱えているのかもしれない。

「誰かのため」と「自分のため」とが分けられるものでないのならば、「誰かのためでなく、自分のため」のファッションとは、いったい何を指すのだろうか。それが空虚なまま、便利なキャッチコピーとして流布される様には、一抹の不安を覚える。他者との関係を完全に無視した「自分らしさ」などないのに、「ファッションは自分のためなのだから、すべてあなたの選択だよね」と、まだ残っている規範や抑圧をごまかすための格好の言い訳になりはしないだろうか。

他者とのままならない関係を通じて現れる「自分らしさ」

ファッションを通して、私たちの身体を「多様な美」や「自分らしさ」へと開いていくことには、確かに希望がある。「誰かのため」でないファッションの提唱は、女性をはじめとして「こうあるべき」を押し付けられてきた人びとが、快適さや自信を取り戻すきっかけになるだろう。

他方で、「誰かのためでなく、自分のため」という矛盾をはらんだ曖昧なフレーズは、そこにあり続ける他者との関係性をなかったことにし、私たちの選択をすべて各自の責任へと帰す危うさを抱えている。

ファッションを考えるとき、強制される「誰かのため」に色々な形で抵抗しつつも、聞こえのいい「自分のため」を安易に鵜呑みにしないことも、大切なように思われる。「自分らしさ」は、他者との関係性の中で見つけ出されていく。

先に挙げた磯野は、「自分らしさ」の試行錯誤においては「『ままならない世の中』に対して諦めることなく『そうではない世の中』を志向し、世間の在り方を変えていこうとする」(磯野 2022: 212)ような「自分」が立ち現れるとする。世の中の「ままならなさ」を他者との関係を通じて変えていこうとするとき、ファッションはそれに役立つ手段にもなり得ると、筆者は信じている。

(1)たとえば次の記事を参照されたい。東京新聞 2020「変わる大学ミスコン・ミスターコン ルッキズムや性差別助長への批判受け…学生たちが在り方を模索」(2022年12月11日取得,https://www.tokyo-np.co.jp/article/70248
(2)株式会社カネボウ化粧品KATE公式ホームページ「自分を縛る、ルールを壊せ」(2022年12月11日取得,https://www.nomorerules.net/brand/
(3)新ヶ江章友(2021: 49)によれば、近年盛んになりつつある「LGBTマーケティング」はLGBT当事者を直接の顧客に据えるものというより、必ずしも強い人権意識を持っているわけではない人びとを消費主体として立ち上げ、LGBTという「イメージを商品化すること」によって企業をブランディングするものであるという。自由で「自分らしい」メイクやファッションを礼賛するファッション・美容産業の広告は、LGBTマーケティングの在り方と共通点を持つように思われる。新ヶ江は、こうしたLGBTマーケティングが社会運動として位置付けられながらも、当事者の権利の保障やそれに基づく制度変革を目指すことなく、むしろそれらを後退させてしまっていないかを危惧するが、ファッション・美容産業にも同様の注意が必要であろう。

参考文献(五十音順)
磯野真穂 2022 『他者と生きる:リスク・病い・死をめぐる人類学』集英社.
新ヶ江章友 2021 「ダイバーシティ推進とLGBT/SOGIのゆくえ:市場化される社会運動」 岩渕功一編著『多様性との対話:ダイバーシティ推進が見えなくするもの』青弓社,pp.36-58.
筒井晴香 2021 「自分を美しく見せることの意味:ルッキズム、おしゃれ、容姿の美」 『現代思想2021年11月号 特集=ルッキズムを考える』青土社,pp.190-199.
藤嶋陽子 2020 「身体を受け入れること、身体を手放すこと。:ボディポジティブは誰のために、そして誰を突き放すか。」 『現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=フェミニズムの現在』青土社,pp.302-308.

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