2022.10.18

【リレーコラム】街の神秘と愛着(菅原慧祐)

PROFILE|プロフィール
菅原 慧祐
菅原 慧祐

一橋大学社会学研究科所属。専攻はミシェル・フーコーの哲学、ポピュラーミュージックの技術史、現代アナキズム。

このテクストは2010年に原書が刊行されたジョン・ホロウェイ『革命:資本主義に亀裂を入れる』(邦訳2011, 河出書房新社)に繰り返し登場するある女性に触発され書かれることとなった。

彼女は一人の労働者である。しかしある日ふと仕事をずる休みして近くの公園に向かう。彼女はベンチに座り、本を開き、静かにページをめくり続ける。現行社会の形成を担う労働者たちが、他ならぬ自らが作り手として取り込まれているこの世界を作り維持することを止めることによって、新たな社会の端緒が開かれる。この、『権力を取らずに世界を変える』(2009)より繰り返し論じてきたホロウェイ的社会変革のプランの体現者として、仕事をサボり公園で本を読む彼女は描かれている。

ここで一つ問いを投げかけたい。彼女はなぜ公園に向かったのだろうか。ホロウェイにとって社会変革の糸口そのものである公園での読書は、どうしてその公園、、、、でなされなければならなかったのだろうか。

わたしは服を買わない。服が嫌いなわけではないが、積極的に服を買おうと思うことが少ない。そんなわたしでももちろん服を買うことがある。

わたしは友人とするあてどない散歩が好きだ。人かどの詩人である或る友人の一人は、詩と同じくらい服を愛している。わたしは彼との散歩の過程で服を買うことが多い。

彼と一緒に街を歩く。駅を出てすぐに商店街があって、アーケードを脇に入った裏路地にはたくさんの古着屋がひしめいている。友人に誘われその中の一軒に入り、陳列された服をぼんやりと眺める。

店を出てまた歩く。本屋に寄ったり楽器屋に寄ったりしたのちにまた服屋に入る。わたしは特に意味もなくハンガーに吊るされたいくつものシャツを見ている。シルバーアクセサリを物色していた友人がふとやってきてわたしに言う。「このシャツ、似合うんじゃないの」。

わたしはフィッティングルームへと向かい試着する。悪くない、、、、、いや、なかなか良い、、、、、、。わたしは白を基調としたイタリア製のポリエステルシャツを購入することを決める。レジで店員が微笑む。

「ポリシャツ好きなんですか?」
「はい、結構好きです」
「これ、70年代のシャツなんですけど相当状態良くて。ただ、みんなポリシャツ買わないから……。これも倉庫にしまおうかと思ってたんですよ」

会計を済ませて店を後にする。その後も友人に連れられて幾つかの服屋に入る。だいぶ歩いたところで商店街にある中華料理屋に向かう。青島ビールを飲みながらの談笑の最中でふと今日買ったシャツの入ったショッパーが視界の片隅に入る。それは会話を止めたり話題の中心になったりするような強い印象を痛飲中のわたしに与えはしなかった。しかし、わたしは次またこの街で散歩する時にはこのシャツを着てこようと思う。

以上はある日の散歩を素描したものだ。この中に服の選択にとって、あるいはより広く、何かを選び取り行動する際の秘密と肝要があるように思われる。

服を吟味するフィッティングルームの中で、わたしは常にある街の姿や共に歩く友人の姿を想いながら試着を行う。この服を着ながらこの街を歩く自分の姿に、この服を着ながら友人の隣を歩く自分の姿に想いを馳せながら服は選びとられる。服は常に街の風景の一部であり、また誰かとの関わりの中で着られる。わたしはわたしではないものたち——猥雑な商店街、静かな裏路地の空気、冗談の好きな詩人——との結びつきの中で生を営む。

その意味で、服選びとは、物や者たちという様々な要素によって織りなされている生を彩るような服を選ぶことに他ならない。「悪くない、、、、、いや、なかなか良い、、、、、、」とわたしが一人ごちるとき、わたしはこの世界を彩るような服と出会った。

彩ること、それは無数の物と者たちが行き交うこの世界をより美しく心が弾むものに仕立て上げることである。(1)そして、その世界の上でわたしは生きているという意味で、世界を彩るということはわたしの生を彩ることでもある。

しかし、世界を彩ろうとするときの世界、、は、決して漠然とした顔のないものではなく、常にある街や友人という明確な姿を持っている。この、ある街や友人たちが服を身に纏う時に頭をよぎるのは、わたしが彼らに「愛着」(attachement)を抱いているからだ。どうしようもなく惹かれてしまうものがある。それは常に熱情を伴っているわけではない。しかし、単に温度が低いわけではないのだ。

愛着の対象は、もはや意識の上にのぼらないほど常にともにある。そして、意識されることがないが故に、愛着はしばしば等閑視されてしまう。(2)しかし、この世界の地面の上に立って思考し行動するその時、われわれは愛着を持った物や者たちとの知らず知らずの対話を行っているのだ。

これまで「わたし」という一人称で語られてきた主題は、このテクストの筆者だけが妄想しているものでは決してないと思われる。昨今各地で盛り上がりを見せている街の再開発反対運動とは、まさしく無数のひとびとにとっての愛着の対象が毀損されることに対する抵抗そのものではないか? こうして一人称「わたし」は「われわれ」となる。

このわれわれの中に、おそらく冒頭で紹介した彼女もまた含まれている。彼女の抵抗は他ならぬその公園から開始された。それはまさに、彼女がその公園に惹かれていたからだ。

われわれの中の一人であるこのわたしもまた、白いシャツの似合う街と、白いシャツのわたしの横で笑う友人に対する愛着によってこそ生きる。そして、それらが毀損されんとするその時には、わたしもまた本を鞄に入れながら、街の真ん中に座りページを捲ることだろう。当然、白いポリエステルシャツを身に纏いながら。

(1)存在するもの、生じる感情、それら全ては複数的である。スピノザが語るように、われわれ各個人、物々、それらすべての存在と感情は他の諸物からの触発を被りながら生起しているのだから。Cf. スピノザ『エチカ』第3部。
(2)生の大部分においては、集団内の規範や道徳が優先される。例えば、経済合理性という規範が個的な愛着を圧倒するが故に、街の破壊と再構築は容易にそして急速に進展していく。Cf. https://jrafanell.wordpress.com/nouvelles-figures-du-partisan/

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