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2023.03.08

【リレーコラム】脱毛広告がつくり出す「ムダ毛」イメージ——「ツルスベ肌」に憧れて(河野夏生)

PROFILE|プロフィール
河野夏生
河野夏生

奈良女子大学大学院人間文化総合科学研究科博士後期課程1年。専門はジェンダー論、表象論、身体論。脱毛広告等の表象を扱いながら、日本の脱毛文化についての研究を行っている。

日常生活に張り巡らされた脱毛広告

公共交通機関を利用する度に、脱毛広告に取り囲まれていることを実感する。移動時間にスマートフォンでSNSや動画共有サイトを見ていると、何社もの脱毛広告が流れてくる。ふと顔を上げると、吊り革の間から車内に張り巡らされた脱毛広告の中で微笑むモデルと目が合う。

この大量の脱毛広告がつくり出すイメージは私をがんじがらめにする。脱毛しないといじめられるよ、彼氏に振られるよ、脱毛しないから酷い目に遭うんだよ、脱毛したら好きな服が着れるよ、自分に自信が持てるよ、脱毛しただけでこんなに幸せになれるんだよ。そうか、今日嫌な目に遭ったのも、自分に自信が持てないのも、なんだか人生がいまいちなのも、私が脱毛していないからだったんだ。そんな錯覚を抱かせる。

約100年前に婦人誌に登場した脱毛広告は、ポジティブな「無毛」の身体とネガティブな「有毛」の身体を現代に至るまで繰り返し示してきたが[1]、髪の毛と眉毛と睫毛を除く女性の体毛が「ムダ毛」であることを示すには十分で、体毛の生えた女性の身体は醜く、「ツルスベ肌」の広告モデルたちは魅力的で眩しかった。彼女たちの人生もまるで輝いているかのように見えた。

隠されてきた脱毛行為

脱毛したからといって自分の人生が劇的に好転しないことくらいよく分かっている。それなのに、私たちが剃刀を持って、クリームを塗って、あるいは脱毛サロンに行くことは、特別なことではなく、「当たり前」のこととされてきた。それどころか、その「当たり前」さえ隠さなければならなかった。

初経を迎え、胸が膨らみ始めた頃に「ムダ毛」が気になり始めた。しかし、私に生えている「ムダ毛」は友人には生えていなかった。こっそりティーン誌で確認すると、どうやら剃刀や脱毛クリームというもので処理していることを知った。10代のときに電気脱毛を経験したリタ・フリードマンは母親から、このことは誰にも言わないようにと言われた。「その底にあるメッセージは、「望ましくない」体毛があるということは恥ずかしいことで、それを取り除くこともまた、恥ずかしいことなのだ」(フリードマン 1995:349)とフリードマンが述べているように、少女の身体に体毛が生えること自体羞恥を伴うことだとされてきたのだ。あの頃の私も誰にも知られぬように浴室で黙々と剃刀を滑らせた。

脱・脱毛イメージの出現?

脱毛後の理想像はたった一つであり、産毛すら生えていないどころか、毛穴さえない「ツルスベ肌」である。ゴールが明確であることは市場にとって好都合だ。客の要望はいつも一律で、彼女たちの肌から根こそぎ「ムダ毛」を取り除いてしまえばいいのだから。このことも日本の脱毛市場の急速な拡大を可能にしたのではないかと思われる。

もちろん、このような流れに対し異を唱えるような動きがないわけではなかった。2020年、脱毛広告に日本で初めてわき毛の生えたモデルが登場し話題になった。ファッションや生き方の多様化と重ねて、「毛の剃り方だってもっと自由でいい」というメッセージと共に顕になった彼女のわき毛は印象的で、人々の共感を呼んだ。

しかし、彼女のわき毛は日本人のそれと違って明るい色をしており、右側のわき毛の一部は星型にカットされ明らかに整えられていた。そして彼女はバーチャルヒューマンだった。小林美香はこの広告について、「起用されるタレントやモデルの容姿が、広告の用途によって切り取られ、表層的に商品として扱われていることを示唆すると同時に、広告表現においては、脱毛やルッキズムに対する批判自体を、生身の人物を通して行うことが困難であることも露呈させている」(小林 2021:99)と指摘する。一見「ムダ毛」を肯定するかのようなこの広告は、彼女がバーチャルヒューマンである以上、「ムダ毛」のある「生身の身体」を否定するにほかならない。

つくられたイメージと対峙する

私たちを脱毛に向かわせるのは広告に限らない。高校生の頃に購読していたファッション誌のモデル、中学生の頃に読んでいた漫画のヒロイン、小学生の頃に買ってもらったリカちゃん人形…。誰もが「ツルスベ肌」で私の憧れだった。彼女たちに近づくための一歩として剃刀を握ることは至極当然のことだった。

広告を中心とするイメージが、「有毛」の身体がいかに醜いか、「無毛」の身体がいかに美しいかを繰り返し私たちに刷り込むことによって、女性の体毛を「ムダ毛」とみなす価値観を普遍的なものにしてきたのではないだろうか。

筆者は「ムダ毛」への嫌悪感を簡単に払拭できないこともよく理解している。しかし、スーザン・ブラウンミラーが体毛に対して「私は生まれて以来の文化的条件づけのせいで、美的嫌悪感を覚えてしまった」(ブラウンミラー 1998:177)ことや、レベッカ・M・ハージグが体毛嫌悪は「最初から存在する本能ではなく、共同体の中で付与された価値」(ハージグ 2019:27)を反映したものであると指摘するように、この価値観はつくられたものなのである。

絶え間なく流れてくる言説やイメージに溺れることなく、一度立ち止まって自分の体毛について考えてみる必要があるのではないだろうか。「有毛の女性身体を否定する社会」への抵抗の一歩として。

[1]拙稿になるが、「近代日本の「ムダ毛」イメージ:「脱毛文化」の形成期における女性の体毛表象」(河野夏生2021『家政学研究』第68巻第1号、奈良女子大学家政学会:1-7)では1920年代から脱毛広告が存在していたことを示している。

参考文献
小林美香「脱毛広告観察:脱毛・美容広告から読み解くジェンダー人種、身体規範」、『現代思想:特集 ルッキズムを考える』第49巻第13号、青土社、2021年、pp.90-106
スーザン・ブラウンミラー『女らしさ』幾島幸子・青島淳子 訳、勁草書房、1998年
リタ・フリードマン『美しさという神話』常田景子 訳、新宿書房、1995年
レベッカ・M・ハージグ『脱毛の歴史 ―ムダ毛をめぐる社会・性・文化』飯原裕美 訳、東京堂出版、2019年

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