2022.06.22

【リレーコラム】装いを変えるわたし、装いが変えるわたし――コミュニケーションとしてのファッション(庄子諒)

PROFILE|プロフィール
庄子諒
庄子諒

専修大学人間科学部兼任講師ほか。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。専門は、社会学、社会調査、コミュニケーション論。2011年に発生した東日本大震災・原発事故後の福島をフィールドに、おもにユーモアや笑いがもつ社会的機能に着目しながら、問題状況下での経験とコミュニケーションをめぐる課題や可能性について、質的調査をとおした研究を行っている。

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装ってしまう、ということ

ある朝、目が覚めると、自分が透明人間になっていたら、という想像を一度でもしたことがあるひとは、少なくないだろう。子どもの頃、いちばんに気になっていたのは、透明人間が服を着て出かけたら、服だけがぷかぷかと街なかを浮遊することになってしまうのだろうか、ということだった。

もしそうだとしたら、透明人間であること、つまり自分が何者であるのかをまわりに晒さないようにしようとすると、なにも身に着けないほうがよいことになる。翻って、なにかを身に着けてしまうことは、自分が何者であるのかを、まわりに晒してしまうことになる。――じつは、透明人間になどなっていない、いつもの朝であっても、なにかを身に着けることには、そういうジレンマが少なからず付きまとうのではないだろうか、という思いが、たとえばその日着ていく服に悩むとき、浮かんでくる。

自分が何者であるかを表したくないならば、なにも身に着けなければよいのかもしれないけれど、透明人間ではないわたしは、そうするわけにはいかない。そして、なにかを身に着けて外に出たとたんに、それらが、避けがたく他者にむけて自分のことを表現するメッセージのひとつひとつになってしまう。なにかを装うことは、他者にむけて自己を表現する、正確には、おのずと表現してしまう、ということである。言い換えるならば、装いとは、すぐれて、他者とのコミュニケーションの回路であるといえるだろう。

装いを変えるわたし

したがって、わたしたちは装いに、いろいろと気を遣うことになる。「装いに気を遣わない」という態度もまた、結果的にその態度を表すような装いを選びとることになり、他者に自己を表現することになるだろう。個性的であろうとしたり、ひととは違っていようとしたりするときも、「ふつう」であろうとしたり、ひととおなじくいようとしたりするときも、わたしたちは、装いが自らをおのずと伝えてしまうことからは逃れがたい。

ところで、「装う」という言葉は、「身なりをととのえる」「飾りととのえる」ことを意味するほかに、「それらしい様子をする」「それらしく見せかける」といった意味をもっている(1)。たしかに、装いは、そうありたい自分を強調したり、そうありたくない自分を隠したりするための「見せかけ」のもの、比喩的に言うならば、「演技」のための「舞台衣装」にもなりうる。だから、わたしたちはしばしば、装いを選び、変えることで、他者に与える自分の印象を意図的にコントロールしようとする。それによって、なにかを「演じている」という意識が強くなるときほど、いわば〈偽装〉と呼べるものに近くなるだろう(2)

しかし、わたしたちが生きる社会を「舞台」に、そこでのコミュニケーションを「演技」にたとえるときには、たんに他者に与えたい印象を意図的に演じるというだけでは済まない、その複雑さが重要になってくる(3)

ここでは、次の点だけを押さえておきたい。コミュニケーションにおいては、相手に与えたい印象がうまく伝わらない場合もあれば、相手に与えたくない印象が伝わってしまう場合もある。それは、他者とのコミュニケーションがそもそも、そのようなズレやすれ違いをかならず含んでしまう、という性質をもっているからだといえる(4)。だから、相手に与える印象を意図的にコントロールしようとしても、ままならない部分がどうしても生じてしまう。

すなわち、装いを変えるとき、そこには、自らが意図的に伝えたいと思うわたしの姿がそのまま映し出されるわけではない。その装いをとおして、何気なく伝わってしまうこと、伝えたくないのに思わず漏れ出すように伝わってしまうこと、あるいは、伝える意図はないのに勝手に受けとられてしまうことなど、広い意味での、さまざまなディスコミュニケーションが生じうるのである。

これらのことは、非常に厄介な問題だといえる。自らの装いが、自らの意図しないわたしを表してしまう、という問題である。そして実際に、そのせいで恥ずかしい思いをしたり、困惑したり、ショックを受けたり、といった、さまざまなネガティブな経験を招くこともありうるだろう。それは、繰り返すならば、装いというものが、他者にむけて自己を表現してしまうコミュニケーションの回路であるからにほかならない。

装いが変えるわたし

しかしながら、ここまでの話は、ずいぶんと他人のことを気にしすぎているように感じるひともいるかもしれない。なぜなら、装いとはまずもって、自分のため、あるいは「自分らしさ」のためにある、という考え方もありうるからだ(5)

そのような心持ちであったとしても、装いがもつ他者とのコミュニケーションの側面がなくなるわけではない。装いは、人目に触れる以上は、誰かになにかを伝えてしまっているだろうし、その事実にもとづいて、あくまでも装いは自分のためだという主張を相対化してしまうこともできる。だが、それでも、装いは、ほかならぬ自分自身のためにある、という態度が、もうひとつの新しい可能性を開くこともある、と考えてみたい。

それは、装いを変えるときの目的によって、立ち現れることになる。すなわち、「自分自身を変えたい」という目的である。他人にどう見られるかに先立って、自分自身を変えるために、装いを変える。このことは、先述した、装いを変えることでほかのなにかを「演じている」とき、つまり〈偽装〉のときとは対照的である。ほかのなにかの目的のために装いを変えるのではなく、ほかならぬ自分自身を変えるという目的のために装いを変えること。それを〈変身〉と呼ぶこともできるだろう(6)

このとき、自らの装いが、自らの意図しないわたしを表してしまう、という非常に厄介な問題だったものは、同時に、〈変身〉によってもたらされうる自分自身の変化の可能性の広がりを証すものにもなる。〈変身〉とは、装いを変えることによって、自分自身がどれぐらい変わりうるのか、ということを試みる実践だといえる。そうであるならば、自らの装いを変えたことで、他者の目に自分が別様に映ったことは、自分自身が変わりうるということへの自信や確信をもたらすかもしれない。さらには、他者の目に自分が別様に映ったことが、結果的に、自分自身が変わったということの証明になる、といってもいい。

もちろん、「自分自身を変えたい」という目的であっても、そこに達成したい理想の自分像があれば、その意図した理想の自分像と、他者が受け取った自分の印象とのあいだの齟齬に、〈変身〉は失敗した、とがっかりすることもあるだろう。しかし、そもそも、自らも意図しないようなわたしになっていくことこそが、望んでいた、ほんとうに自分自身が変わる、ということであるかもしれないのだ。

✳︎

わたしが透明人間でないのとおなじように、装いも、そして、コミュニケーションもまた、透明なものではありえない。そのせいで、他者とのあいだに避けがたく生じるディスコミュニケーションには、意図しないことが生じる厄介さがあると同時に、意図しないことが生みだす新しさの可能性が潜在している。

そのように考えたら、ようやく、なにかを装うということ、正確には、なにかを装ってしまうことの可能性に賭けて、たとえばその日着ていく服を、少しだけ悩まずに、あるいは思い切って、手にとれるかもしれない。

社会学者のE. ゴフマンは、「人生に賭のようなところはあまりないかもしれないが、相互行為は賭なのだ」(7)と述べたが、コミュニケーションがそうであるように、ファッションもまた、そんな厄介さと新しさの可能性が裏表となった、日々の賭けとしてあると思う。


(1)『広辞苑 第七版』より「装う」の項目を参照した(新村編 2018: 3032)。
(2)〈偽装〉という概念は、江原由美子による「私の変え方」の4類型のひとつである(江原 2005)。江原は、「私を変える」ということを、①その理由が手段的か/表出的か、つまり、他の目的の手段か/それ自体が目的か、という軸と、②変えるのは主我か/客我か、つまり、自分自身の生き方やものごとに対する態度や気の持ち方などか/外観や属性などか、という2つの軸によって、4つに分類する。そのうち、〈偽装〉は、外観や属性などにあたる客我を、他の目的のための手段として変えることにあたる。
(3)演劇やドラマを比喩として用い、人びとの行為やコミュニケーションを演技として捉えようとするアプローチは、E. ゴフマンによる議論(Goffman 1959=1974)をはじめ、社会学における重要な視角のひとつとなっている。詳しくは、井上俊や江原による整理(井上 1977; 江原 1985)を参照のこと。
(4)ディスコミュニケーションという概念を生みだしたのは鶴見俊輔だとされるが(鶴見 1991)、その議論の肝要は、コミュニケーションにおけるズレやすれ違いといったものを「不可避な常態」だと考える点にある(井上 2009)。
(5)装いが、自我や自分らしさを支えたり形成したりするうえで、強い影響をもっていることは、社会学においてもさまざまに見出されている。たとえば、河原和枝や谷本奈緒による議論(河原 2005; 谷本 2017)を参照のこと。
(6)〈変身〉という概念もまた、江原による「私の変え方」の4類型のひとつである(江原 2005)。これは、手段的であった〈偽装〉に対して、外観や属性などにあたる客我を、「私を変える」ということ自体を目的として変えることにあたる。
(7)ゴフマンは、他者に抱かせた印象と表出上矛盾することが起きる「攪乱」という事態を論じるなかで、相互行為においては、他者に当惑を与えたり辱められたりする可能性が避けがたくあることを強調し、こう述べている(Goffman 1959=1974: 285-7)。

参考文献
江原由美子,1985,『生活世界の社会学』勁草書房.
――――,2005,「私を変える」井上俊・船津衛編『自己と他者の社会学』有斐閣,117-33.
Goffman, E., 1959, The Presentation of Self in Everyday Life, Doubleday Anchor.(石黒毅訳,1974,『行為と演技――日常生活における自己呈示』誠信書房.)
井上俊,1977,『遊びの社会学』世界思想社.
――――,2009,「対話というコミュニケーション」長谷正人・奥村隆編『コミュニケーションの社会学』有斐閣,89-107.
河原和枝,2005,「〈視線〉としての他者――ファッションをめぐって」井上俊・船津衛編『自己と他者の社会学』有斐閣,191-207.
新村出編,2018,『広辞苑 第七版』岩波書店.
谷本奈緒,2017,「外見と自分らしさ――何のため/誰のために外見を整えるのか」藤田結子・成実弘至・辻泉編『ファッションで社会学する――Doing Sociology through Fashion』有斐閣,92-110.
鶴見俊輔,1991,「二人の哲学者――デューイの場合と菅季治の場合」『鶴見俊輔集2 先行者たち』筑摩書房,247-87.

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