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【リレーコラム】都市で着る/都市を着る:ファッションと匿名性について(関駿平)

PROFILE|プロフィール
関駿平

慶應義塾大学大学院社会学研究科社会学専攻後期博士課程。修士(社会学)。専門は都市社会学。東京都心地域のオーセンティックバーを事例に、都市生活と飲酒文化に関する社会学的研究を行っている。近刊に「シカゴ学派はいかに理解可能か--都市研究と社会的世界論の展望」(『書評ソシオロゴス』・共著)、『東京の生活史』(筑摩書房・分担執筆)、『よくわかる観光コミュニケーション論』(ミネルヴァ書房・分担執筆)など。

いつも、都市に漠然とした憧れがあった。中学生のときは、休日になると地元から電車に乗って街に繰り出し、目的なく彷徨いながら、建物や人を見るのが好きだった。20代になってもそれは捨てきれず、東京に出てきた。既に大学院生でいい歳をしていたのだけれど、東京の盛り場を見て胸を躍らせる自分がいた。数えるのが馬鹿馬鹿しいくらいの人が歩くなか、都市について書かれた社会学の本を思い出して、これから研究で何が見れるのだろうとワクワクしていた。今思えば、自分の好奇心は都市と共にあった。
都市に出る時には、服装に気を遣う自分がいた。特定の見せる人がいたわけではないし、昔も今もおしゃれとは程遠いが、自分なりに気を遣わなければいけない気がした。今思うと、その「気の遣い方」には2つの種類があった気がする。
この経験を読み解くためのヒントは都市の「舞台性」と「匿名性」だと思う。本稿では、都市に繰り出す人々のファッションについて少し考えてみたい。違う言葉で位置付けるなら、本稿で考えたいのは人々の「舞台」に対する向き合い方なのかもしれない。

「都市で着る」

都市をたとえる表現に「舞台」という言葉がある。都市論の文脈では吉見俊哉を筆頭に、渋谷の舞台性に関して議論が活発に行われてきた(吉見 1987;北田 2011;三浦・藤村・南後 2016)。ハロウィン・カウントダウン・映画のワンシーンなど、さまざまな「舞台」として人々の注目を集め、日々多様な演目が行われる場所が都市にはある。舞台に立つ演者には衣装が必要だ。その都市の舞台性を象徴するかのように、都市のファッションを明らかにしてきた試みを随所に確認することができる(たとえば、今・吉田編 1986など)。
舞台に乗るために気を遣う自分がいる。自分は色々と理由があって1人で都心のバーに行くのだけれど、都心部に出かけるときにはよくスーツを着ていくことがある。ネクタイをしめてアタッシュケースを持ち、サスペンダーでスラックスを吊るす。そんな日ではなくても、特徴的なデザインが多く施された服を好きなように身に纏い、街を歩きたい日もある。
特に見せたい人がいるというわけではないし、むしろ友人がそこを通りかかったら恥ずかしいかもしれない。道行く見知らぬ人々との「見る/見られる」の関係性の中でこそ、人は舞台衣装に身を包む力を与えられる。
しかし、上記のような「舞台性」のファッションが私たちすべての経験に当てはまるだろうか?当てはまらないとしたら、何が都市のファッションの特性を説明するのだろうか。

「都市を着る」

「匿名性」は「舞台性」に加えて、都市を考える重要なキーワードである。匿名性の高さーーつまり、見知らぬ他者と生きることーーは多くの都市生活に確認できる特徴であり、匿名性の中での人々の共存は現在も都市生活の課題であり可能性として捉えられている(たとえば、Jacobs 1961=2010)。都市に生きる人々は匿名性が当たり前となった世界を闊歩しているのである(Lofland 1973)。
匿名性の中で生きるということは、他者の存在を常に意識して生きるということである。見知らぬ人々の定まらないまなざしは、諸刃の剣だ。まなざしは、都市の創発的なアイデアや多様性につながることもあれば、ときには人々の不安や恐れを生み出し、人生を狂わせる(見田 2008)。ときに、まなざしと距離を取る立ち振る舞い方も都市では必要になる。自分の経験をもう少しだけ紹介したい。
自分には、ときにまなざしに晒されたくないときがある。たとえば、1人になりたいときや、人に気を遣えるほど余裕がないときには、都市の舞台で悠々と演技できるほど人は強くない。しかし、都市に住んでいる以上、その舞台性(とまなざし)から逃れることができるわけではないし、都市を歩かざるを得ないときがある。
だから、自分は身を隠せるような服を選ぶときがある。そのとき自分は、できるだけシンプルな服装に身を包み、街ゆく人々にできるだけ溶け込めるような目立たない服を着る。そうすることで、なんとか人々のまなざしから距離を取ろうとする自分がいる。
このとき自分は、匿名性に溶け込んで透明になり、街をゆっくりと見渡せる。まなざしからできるだけ距離を取ることで、人々とのさまざまな接触を避けられる。そういったファッションも都市にはあるのではないかと、そう思うときがある。

まなざしに対する可変的ファッション

タイトルに冠した「都市で着る/都市を着る」はそれぞれ「(舞台としての)都市で着る」ことであり、「都市(の匿名性)を着る」ことである。都市に生きる人々は、舞台で演技することもあれば、都市の匿名性に溶け込み透明にもなれる。
無論これは、都市にだけ見られる現象ではないかもしれない。もしかすると、この体験は私だけの特異な体験かもしれない。流れゆくストリートの中で、誰が特徴的か/でないかなどは数値化することは難しいだろうし、便宜的な分け方に過ぎないのかもしれない。
しかし、都市のまなざしに向き合いながら、自らの振る舞いに対して可変的な姿勢を持つ。その姿勢によって、ときにはその中に溶け込む一片となり、ときにはその舞台性を利用して、都市を闊歩する役者となる。その可変性が都市に生きる人々の、ファッションへの向き合い方なのかもしれない。あなたは今、都市に繰り出すとき、どんな服を着るだろうか?

参考文献
見田宗介,2008『まなざしの地獄──尽きなく生きることの社会学』河出書房新社.
Jacobs,Jane,1961,The Death and Life of Great American Cities,New York:Vintage(山形浩生訳,2010, 『アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会.)
北田暁大,2011,『増補 広告都市・東京──その誕生と死』筑摩書房.
今和次郎・吉田謙吉編,1986『モデルノロヂオ(考現学)』学陽書房.
Lofland,Lyn H.,1973,A World of Strangers:Order and Action in Urban Public Space,Illinois:Waveland Press.
三浦展・藤村龍至・南後由和,2016,『商業空間は何の夢を見たか──1960年〜2010年代の都市と建築』平凡社.
吉見俊哉,1987『都市のドラマトゥルギー──東京・盛り場の社会史』弘文堂.

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