2022.12.23

【リレーコラム】バンドのグッズを身にまとうこと──ライブハウスの物販スペースでなにが起こっているのか?(新山大河)

PROFILE|プロフィール
新山大河
新山大河

大阪府堺市出身。立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程。専門は社会学、文化研究。ロックバンドShout it Outのベーシストとして、2016年ポニーキャニオンよりメジャーデビュー。バンド脱退後、立命館大学産業社会学部現代社会学科卒業。研究テーマはライフワークとしての音楽実践と生活について。ライブハウスでのフィールドワーク、バンドマンへのインタビュー調査を通じて研究をおこなっている。
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1.バンドのグッズを身にまとうこと

京都河原町、大学院の帰りに研究仲間とファミリーレストランで食事をとっていた。しばらくすると「今度のライブ、曲順はどうする?」といった会話が聞こえてくる。ギター、ベース、スネアドラム、エフェクターボード。多くの機材に挟まれつつ、隣で肩身を狭くして座るバンドマンたちがミーティングをしている。筆者がドリンクを取りにいく際、ふとベースケースに目を向けると、筆者がかつて所属していたバンドの缶バッジが、筆者の憧れのバンドの缶バッジと肩を並べていた。

筆者は音楽をやめてしまったが、少しでも残せたものがあって、それが何かしらの形で今も続いているのなら、こんなにも嬉しいことはない。缶バッジは2つとも、2015年前後に販売されていたものだった。筆者は7年ほど前に、ミーティングをしているバンドのベーシストと、どこかのライブハウスで同じ時間を共有していたのだろう。そう思うと「ああでもない、こうでもない」と話をしているバンドメンバーたちが、勝手ながら懐かしい旧友のように感じられた。

同じ趣味を共有しているのだから、素朴にそれは当たり前だろうと思われるかもしれない。しかし、どうして私たちは見知らぬ人々であっても、バンドのグッズを媒介として、親しみを感じたり、懐かしく思ったりするのか。

このコラムでは、バンドのグッズを入手し身にまとうという、個人的であると同時に、極めて協働的なおこないについて、紐解いていきたい。

2.<いま・ここ>でなされるライブの記憶

バンドのグッズを入手することはいかなるおこないなのか。ここで参考になるのが、ポピュラーカルチャーにおけるモノの受容を、記号・物質・記憶の観点から分析し、その時間的・空間的に重層化した力学ついて考察した松井広志(2013)である。

特に松井はモノと記憶の関係において、アルヴァックスの集合的記憶論と浜(2000)の議論を援用し、以下のように指摘する。

コンテンツの受容をめぐる潜在的・顕在的に集合的な「イメージ」が時間の蓄積とともに現在の時点から再構成される「集合的記憶」となり、そのような<かつて・あそこ>での思い出を<いま・ここ>でリアリティを持って想起するために、「物的環境」として「モノ」を持ち(作り)続けるという論理を指摘することができる(松井 2013: 513)。

この観点からバンドのグッズを入手することについて考えてみよう。ライブハウスでバンドのライブに参加し、物販スペースでバンドのグッズを購入する(バンドロゴがプリントされたTシャツ、ラバーバンド、缶バッジなどがグッズの典型である)。それは後日、その日共にライブを楽しんだ友人などとの「顕在的に集合的な記憶」を思い起こさせる。

またそれだけでなく、その日その場にいあわせた人々が共通して体験するライブ演奏についての、「潜在的に集合的な記憶」も同時に想起させる。バンドのグッズに触れることで、このような記憶を私たちは「潜在的に集合的に想起」するのである。

特にライブ公演はその日、その場限りの一回性が体験の肝とされる。生井達也(2022)は、音楽が体験される<その場>の一回性が、スタッフ─演奏者─オーディエンスの3者の相互作用によって生成される「揺らぎ」の中で立ち現れると述べている。

一回性は、これまでのライブの文脈と、イベントごとの文脈が接合されることで生まれる「場の文脈」によって更新されるダイナミズムを有する。当然だが、音響・照明の環境、プレイへの没入感、オーディエンスの盛り上がりなど、同じライブは決して存在しえない。私たちは、偶有性から立ち上がる<その場>を体験するために、ライブハウスへと幾度となく足を運ぶのであろう。

以上からは、一度きりであり、様々な偶然性に支えられて生成された<かつて・あそこ>での記憶や感情を追体験するために、グッズが媒介、いわばその栞として手にされていると考えることができる。

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3.共鳴する音楽「私たちは誰なのか」

このおこないについて、もう少し考えてみよう。ここで、クリストファー・スモールの「ミュージッキング」概念を参照したい。

スモールは「音楽とはモノではなくて人が行う何ものか、すなわち活動なのだ」(Small 1988=2011: 19)と述べており、音楽の本質を音楽そのものではなく、その実践(ミュージッキング=音楽すること)にみている。

ここにはライブで演奏をするバンドマンだけでなく、音楽空間を作りだす全ての人々が主体的なアクターとして含まれる。ライブイベントを取り仕切る店長、バーカウンターでお酒を提供するスタッフ。みながみな、ミュージッキングをおこなうアクターであり、彼ら彼女らが音楽空間を作りだす実践にこそ、音楽の本質が宿っているのである。もちろんライブに参加し、グッズを手にすること、それを身にまとうことも、ミュージッキングのひとつとして捉えられる。

ではミュージッキングの意味することとはなにか。続けてスモールは以下のように述べている。

音楽パフォーマンスに参加するすべての人は、自分たち自身に、参加者同士に、周囲のすべての人々に向かって、「これが私たちなのだ This is who we are」と言っているのに等しい(Small 1988=2011: 257)。

気の合う者どうしがミュージッキングを通して互いの結びつきを確認し、祝うことは、「私たちは誰なのか」という感覚を探り、祝うことに他ならない。そうすることで、もっと充実した形で自己を感じることができる──要するに、それは気持ちが良いのだ(Small 1988=2011: 270)。

音楽空間を成り立たせるアクターのひとりとしてそこに参加すること。スモールにいわせれば、それは集まった人々がその実践から「私たちは誰なのか」ということを感じる体験なのである。ライブやコンサート公演後の飽和したような、えもいわれぬ感覚は、この祝福した/されたことの証左なのかもしれない。冒頭の筆者のエピソードにおける親近感とノスタルジーの正体も、この「私たち」を感じるミュージッキングの共鳴にほかならない。

以上このコラムでは、バンドグッズを身にまとうことの意味づけと、その実践の意義についてみてきた。それは一回きりの<その場>を想起させる栞として受容され、またその音楽実践は自己と他者の結びつきを可能にさせていた。

近年サブスクリプションが台頭し、所有をせずとも多様な消費ができるようになっている。そのなかにおいても、人々が記憶と共にモノを手にすることは、ささやかではあるが示唆的な実践であり、私たちが日々おこなっている営みの豊かさを教えてくれるだろう。

最後にスモールが考える、ミュージッキングを知ることの意義について参照し、コラムを締めくくりたい。

ミュージッキングとはまさに私たちが住むこの世界について知るための、ひとつの方法だということになる……そして、これを知ることによってこそ、私たちはこの世界でより良く生きることを学習するのだ(Small 1988=2011: 107-8)。

参考文献
浜日出夫, 2000, 「記憶のトポグラフィー」『三田社会学』5: 4-16.
松井広志, 2013, 「ポピュラーカルチャーにおけるモノ──記号・物質・記憶」『社会学評論』63(4): 503-518.
生井達也, 2022, 『ライブハウスの人類学──音楽を介して「生きられる場」を築くこと』 晃洋書房.
Small, C, 1988, Musicking: The Meaning of Performing and Listening, Wesleyan University Press. (野沢豊一・西島千尋訳, 2011, 『ミュージッキング──音楽は<行為>である』水声社.)

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