PROFILE|プロフィール
野上貴裕(NOGAMI Takahiro)
1996年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程所属。中心的な分野は哲学・思想史。「日常」をテーマに広く探究しています。論文に「シチュアシオニストの「日常生活」論」(2023年)。また、学術雑誌『SAPA:文化動態研究』(vol.1-3)を編集・発行。
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フィレンツェ発のファッションブランド・AVAVAV(エーヴィエーヴィエーヴィ)のランウェイがしば しば話題に上る。[1]2023春夏コレクションでは、登場したモデルがランウェイ上でみな次々と転倒していくという演出で注目された。続く2023-24秋冬コレクションでは、モデルがランウェイを闊歩するさなかに、身につけたアイテムが引き裂かれ崩壊し落下するというパフォーマンスが披露される。初めはアクセサリーの一部が落下する程度だったのが徐々に落下の度合いは増していき、後半には服がさまざまな方向からの力を受けてはじけ飛び滑り落ちる。そして、モデルたちは出てきたときとはまったく異なる姿で帰っていくことになる。ショーの最後にはデザイナーであるビート・カールソンの登場とともに、ショーの舞台そのものを支える壁が倒れ、その向こうには気まずい顔をしたスタッフたちが現れた。
衣服について思考する、ということを考えるとき、言うまでもなくその思考の対象は衣服である。とはいえ、衣服というものの範囲を定めるのはそう簡単ではない。思考の対象があいまいなとき、私たちは自らのあらかじめもつステレオタイプ的なイメージをもとに思考を開始してしまいがちだ。服というものは大体こういうものだ、と。しかし、ある対象について真正に思考しようとするのであれば、その対象に含まれるものをできるだけ渉猟し、自らのうちに数え入れておかなくてはならない。ここで試みるのは、思考の対象としての衣服の、その範囲の拡張である。
ある一着の衣服の生というものを考えてみたい。その生まれを想像するのはそれほど難しくはないだろう。世界のどこかにある農場で収穫された綿や麻、それか牧場で刈り取られた羊毛、あるいは工場で合成された化学繊維、それらが糸へと加工される。その糸は織物工場へと持ち込まれ、織り上げられる。染色の工程も加わり、糸は一定の規格をもった布となる。出来上がった布と出会うことになるデザイナーは、人間に着用可能な衣服を構築するためにパターンを引き、布からいかなる部分を切り出すかを考える(もちろん布と直接触れ合いながらパターンなしに裁断まで行ってしまう者もいる)。切り出された布は縫製工場で指示通りに縫い上げられ、洗濯やアイロンがけなどさまざまな工程を経て店頭に並べられる。胸のところに何とかいう大学の名前がプリントされたカレッジスウェットのようなものだとしよう。消費者はそれを買い、着る。
買われた服はクローゼットの一部となり、持ち主の日々の気分に合わせて着られたりそのまま置いておかれたりする。あるいは他の衣服と支え合い、擦れ合いながらそれなりの時間を過ごす。やがて食べ物やインク、メイクや汗などの染みによって、あるいは毛羽立ちや毛玉、虫食い、よれなどによって手に入れたときの精彩は失われていき、着る機会は徐々に減っていく。あるとき持ち主はその服を手放すことを決心する。運が良ければリユースへと回され、服としての生を保ちえたかもしれないが、それほど高価でもなく汚れも多いその服は廃品回収に出される。地域を担当している廃品 回収業者は法を守らず、かき集めた大量の衣服をビニールに包んで山中に投棄してしまう。大雨が降り、土砂とともに流れ出たゴミの山は数多の苦難を乗り越えて海に漂うことになる。そしてある日、ある国の海岸に辿り着き、それを少年が拾い上げる。「これ、なんて書いてあるの?」
多くの者は衣服がもっとも生きている瞬間へと思いを致す。縫い上がった瞬間、袖を通した瞬間、それを着たモデルがランウェイに立った瞬間。「お気に入り」として認められ、友人たちとの幸福な享楽の供となった時間。しかしそれらのどれも、着古され、ほとんど廃棄されたあとに衣服が辿る余生、言ってしまえば「生き残り(survie/survivance)」や「後の生(Nachleben)」のことをすっかり忘れ去っている。人生のもっとも輝かしい瞬間、その瞬間にこそ生の意味が煌めくのだと、人においても物においてもそう考える者は多い。しかし、私たちにとっても、物にとっても、生のほとんどの時間を占めるのは決して輝かしくも誇り高くもない持続の時間である。そしてその先には、死にすら見放されたかのような、残りの時間が待っていることがある。しかしこの「残り」の時間においてこそ現れ出る、ある力のようなものがあるのではないか。