2022.06.03

【リレーコラム】「衣と住は、どう区別できる?」ーー「住」の試着・「衣」への到着・アレゴリー(石野隆美)

PROFILE|プロフィール
石野隆美
石野隆美

立教大学大学院観光学研究科博士課程後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC-2)。専門は文化人類学、観光研究。フィリピンにおける訪日観光ビザ申請プロセスを事例に、移動する個人の法的身分と身体の存在論について文化人類学的に研究している。論文に「ツーリスト・アクセス」(『観光学評論』9(2)、2021年)など。分担執筆に『よくわかる観光コミュニケーション論』(ミネルヴァ書房、2022年)、『アフターコロナの観光学』(新曜社、2021年)など。

「衣食住の三つのうち、食はちょっと特別だけど、衣と住は、どう区別できる? 答えられる人はいますか?」(1)

森博嗣の小説『詩的私的ジャック』の一節である。大学教員である犀川創平が、とある女子大学の家庭環境学科の学生たちに問いかけたこの質問に、私は10年近く手を挙げることができていない。考えてみれば、衣服と住居がともに「着る/着く」という同じ漢字によって表現されうることもまた、不思議である。

着る(衣る)こと、食べること、住むこと。衣食住は、人間的生に必要不可欠な3要素だと人はいう。それら個々の差異を瞬発的に発想するならば、衣は何かを身体の「うえ」に、食は何かを身体の「なか」に、そして住は何かを身体の「そと」に位置づけることによって成立しているように思える。差異をなすのは、身体に対する位置である、と。

あるいは移動性の差異だろうか。住は、家屋という、人がそこから発ちそこへ帰るべき定点=ポイントを構成するのに対して、衣はその円環移動をなす身体とともに動線=ラインを構成するようにも思える。むろん家のなかでも服は着るであろうが、家屋/住居が不動性に特徴づけられていること(住所は、不確かであってはならないものであり、それを定めよという命令の構築物にほかならない)、そしてその事実が相対的に衣服を移動的なものにすることは、ある程度は了解されている。

ほかにも、衣と住を隔てる要素を思いつくかもしれない。だがそれと同じくらいに、衣と住の境界が曖昧になるような例外もあるような気がしてならない。たとえば野宿で使用する寝袋や段ボールは、衣と住どちらに該当するのだろう。布や皮で作った壁や屋根は、衣服なのか建物なのか。人間以外の例も挙げてみよう。ヤドカリやカタツムリの「宿」はどちらに定義できるのか? 貝殻はどうか? 住を不動性に、衣を移動性に特徴づけるとするならば、寝台列車や船、太陽系を動く地球はどう位置づけるべきなのか。わからないことばかりである。喜ばしいことに。

近年では、「建築の衣服化」をめぐる言説も目にする。建築家の隈研吾は、布やカーボンファイバーといった素材を木材とともに建築に取り入れてゆくことを通じて、より柔らかく、自由で、人間に近しい衣服のような建築を目指していると、多くのインタビューで語っている(2)。そのまなざしは、コンクリートによる「固い建築」へのアンチテーゼという特有の文脈を有するにせよ、住居と衣服との接近に関するひとつの事実を垣間見ることができる。

画像: null

冒頭の問いに対する私の暫定的かつ感覚的な応答は、衣と住にはじつは本質的な差異などないのではないか、というものだ。そのうえで、この論考において、衣も住もまったくの専門外である私が試みたい作業を言葉にするならば、それは「住の試着」である。いまは食が間に入ることで隔てられている衣食住の衣と住を、隣り合わせにしてみること。そして衣と住の区分不可能性をある種の前提としたうえで、住について語ることが衣をも想起させうる可能性を、試着室の鏡の前に立たせてみることである。

まず考えてみたいのは、住を不動性において特徴づけようとすることの認識論的課題である。ふつう、建物は動かない。ゆえに人間の安住の地となり、帰る場所となると同時に、それはたとえば条里空間の結び目にもなる(3)。こうした思考は、たどれば人間の本質として「住まうこと」を見いだし、建てられたものの内側で思考する人間の姿を問うたハイデガーと出会うことになるであろうが(4)、より人類史的なスケールにおいて彼の西洋的な定住主義的思考は様々に批判されてきた(5)

また、ティム・インゴルドはその人類学的思慕のなかで、住まうことを歩くことと連続的にとらえてきた。彼はハイデガーからジェームズ・ギブソン、そしてカール・ポランニーへと思考の橋を架けながら、次のように述べる。

「住まうことは、文字通り生の道すじに沿って漕ぎ出す動きである。知覚者=生産者は歩を進める散歩者であり、生産の様式とは拓かれゆく行程であり、たどられる道すじである。この道すじに沿って、生は生きられ、わざが磨かれ、観察がなされ、理解が育つ。だとすると、ハイデガーが考えたように、住まうことを森のなかの空き地のような開かれた場所におけるものと見なすことはふさわしくない。それは場所のなかにではなくて、道に沿って存在することだろう。場所ではなく道こそが存在すること、いやむしろ何かになってゆくことの原初の状態である。(中略)歩くことが、生き物が世界に生息する根本的な様式だ」(6)

住むこと、住まうことの移動性。インゴルドはさらに、「建築」と「居住」とを区別することで、住む(住まう)ことの実践性を可視化させる(7)。住むこと、住まうことは、あらかじめデザインされた設計図と建築物に身を寄せ、その「枠」のなかですでに書き込まれた意味を感受することではない。住居や空間の意味は人と環境との絶えざる相互交渉のなかで構築されてゆくものであり、その相互的な働きかけが住まうことであるとインゴルドは指摘する(8)

たとえば移動を繰り返しながら生活するモンゴルの遊牧民には、移動のつど出会う客人や訪問客、他のゲルの住民を無条件にその移動式住居「ゲル」に迎え入れる習慣がある。人類学者の寺尾萌は、そのようなゲルという居住空間の開放性と歓待の営みが、家人と他者、環境の相互作用をつうじていかに身体的・物質的に実現されているのかを詳細に論じている(9)

内部を「安全」へ、そして外部を「危険/敵」へと区分してきた家=住居の境界的役割は、歓待の例をみるに、すでに曖昧である。ゆえに住居の「開かれ」は、衣との差別化の根拠のひとつとなりうる住居の遮蔽性をも、掘り崩すものだといえるだろう。

画像: null

ここまでの省察を踏まえて、衣と住を隣接させてみたい。まず、「閉じ切ることのない包括」という意味がいま、衣と住の双方を取り巻いている。衣類には、決してふさぐことのできない穴がいくつか空いている。頭を出すための首元。腕を通す袖。足を出すための裾……。衣服は完全に身体を覆うことはない。しかしそれゆえに私たちは、その露出部分を用いて「この服、似合う?」と声を発し、物をつかみ、歩き、何かをすることができる。それらの事実は、住居が有する「そと」との交渉可能性と重なりあう。住居も衣服も、その「そと」と交渉可能なかたちで開かれており、その交渉をつうじて「そと」との境界線そのものを溶かしてゆく。

また、住居がその「なか」において、人間との交渉に開かれていることもいうまでもないだろう。では、衣類はどうか。それは身体と重なりあうという意味において、「内側=なか」という領域を不確かなものにさせている。それは私の汗を吸う。それは私の皮脂に汚れ、私の身体とともに動き、皴をつくる。身体と相互に浸透し、身体に対して外部化されることのない特殊な領域が、衣服の「内側」であった場所を占めてゆく。

次に、住居が移動的であるゲル。あるいは、人間との相互作用によって開かれる住居。これに対称するものとして、衣服の移動性もまた疑ってみよう。このリレーコラムで赤阪辰太郎氏が執筆した「在庫=ストック」をめぐる素晴らしい論考(10)がすでに示唆しているように、衣服は必ずしも移動的なものではない。あなたが特定のファッションを身に纏い他所へと駆け出していく間、家の中にはあなたが所有する他の衣服が置き残されている。ほとんどの時間、衣服は吊るされたり畳まれたりした状態のまま、あなたの毛髪や、部屋のホコリ、ダニなどとともに時を過ごしているといってよいだろう(気分を害したら申し訳ない)。衣服はあなたとの交渉においてはじめて移動的となる。

衣服は移動的でもあり、移動的ではない側面もある。住居もまた、不動でもあり、移動的な側面ももつ。衣服も住居もともに、「うち」とも「そと」とも交渉し、その位置も境界も曖昧にする。ここで、同じ問いが繰り返される。「衣と住は、どう区別できる?」。

ここまで私はおそらく、衣服やファッションよりも、住居についてより多くのことを語ってきた。ゆえにもしも、住を語ったこのエッセイが衣をも語りえるものならば、それは衣と住とが連続的なものであることの証左となろう。しかし、住むことの試着が、衣へと到着したのかどうか、その肝心な評価は私にはできていない。わかっているのは、衣も住も交渉に開かれているということだけであった。この先のコーディネートは、読者のあなたに委ねたい。

(1)森博嗣1999『詩的私的ジャック』講談社、p19。

(2)たとえば以下を参照。沖本啓一(2017)「隈研吾氏が語る未来に向けたサステナブルな街づくり」『SUSTAINABLE BRANDS JAPAN』webサイト、2017年10月13日(https://www.sustainablebrands.jp/news/jp/detail/1189437_1501.html、2022年5月30日最終確認)。大津若果(2018)『隈研吾という身体――自らを語る』NTT出版株式会社。

(3)ドゥルーズ・ジル、フェリックス・ガタリ(2010)『千のプラトー:資本主義と分裂症 下』宇野邦一訳、河出書房新社。

(4)中村貴志(2008)『ハイデッガーの建築論――建てる・住まう・考える』中央公論美術出版。

(5)一例に國分功一郎(2015)『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版。また文化人類学者のジェームズ・スコットは、狩猟採集生活から農耕・定住生活へと次第に文明化してきたとする人類史の「標準的な文明物語」を問い直し、たとえば定住化がいかに国家を成立させると同時にその崩壊の火種となってきたかを論じている(スコット・ジェームズ(2019)『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』立木勝訳、みすず書房)。

(6)インゴルド・ティム(2022)『生きていること――動く、知る、記述する』柴田崇ほか訳、左右社、pp.48-49。またインゴルドは同じ所で、「住まう」という語が「動きの原初性にそぐわない」ために、代替として「生息habitation」という概念を提示する(p.49)。

(7)Ingold, Tim. (2000). The Perception of the Environment: Essays on Livelihood, Dwelling and Skill. Routledge, Ch.10。 

(8)前者の態度をインゴルドは「建築パースペクティヴbuilding perspective」と呼ぶのに対して、実践としての住む/住まうことを念頭に置いた後者の視点を、インゴルドは「居住パースペクティヴdwelling perspective」と呼んでいる(前掲、pp.178-187)。

(9)寺尾萌(2020)「歓待と親密性――モンゴルの草原におけるゲルと訪問者の迎え入れについての考察」『文化人類学』85(1):92-109。

(10)赤坂辰太郎(2021)「「既にそこにあるもの」との共同作業――時間のファッション・デザイン」『Fashion Tech News』、9月29日(https://fashiontechnews.zozo.com/series/series_fashion_technology/shintaro_akasaka/

LINEでシェアする