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【リレーコラム】「衣と住は、どう区別できる?」ーー「住」の試着・「衣」への到着・アレゴリー(石野隆美)

PROFILE|プロフィール
石野隆美
石野隆美

立教大学大学院観光学研究科博士課程後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC-2)。専門は文化人類学、観光研究。フィリピンにおける訪日観光ビザ申請プロセスを事例に、移動する個人の法的身分と身体の存在論について文化人類学的に研究している。論文に「ツーリスト・アクセス」(『観光学評論』9(2)、2021年)など。分担執筆に『よくわかる観光コミュニケーション論』(ミネルヴァ書房、2022年)、『アフターコロナの観光学』(新曜社、2021年)など。

「衣食住の三つのうち、食はちょっと特別だけど、衣と住は、どう区別できる? 答えられる人はいますか?」(1)
森博嗣の小説『詩的私的ジャック』の一節である。大学教員である犀川創平が、とある女子大学の家庭環境学科の学生たちに問いかけたこの質問に、私は10年近く手を挙げることができていない。考えてみれば、衣服と住居がともに「着る/着く」という同じ漢字によって表現されうることもまた、不思議である。
着る(衣る)こと、食べること、住むこと。衣食住は、人間的生に必要不可欠な3要素だと人はいう。それら個々の差異を瞬発的に発想するならば、衣は何かを身体の「うえ」に、食は何かを身体の「なか」に、そして住は何かを身体の「そと」に位置づけることによって成立しているように思える。差異をなすのは、身体に対する位置である、と。
あるいは移動性の差異だろうか。住は、家屋という、人がそこから発ちそこへ帰るべき定点=ポイントを構成するのに対して、衣はその円環移動をなす身体とともに動線=ラインを構成するようにも思える。むろん家のなかでも服は着るであろうが、家屋/住居が不動性に特徴づけられていること(住所は、不確かであってはならないものであり、それを定めよという命令の構築物にほかならない)、そしてその事実が相対的に衣服を移動的なものにすることは、ある程度は了解されている。
ほかにも、衣と住を隔てる要素を思いつくかもしれない。だがそれと同じくらいに、衣と住の境界が曖昧になるような例外もあるような気がしてならない。たとえば野宿で使用する寝袋や段ボールは、衣と住どちらに該当するのだろう。布や皮で作った壁や屋根は、衣服なのか建物なのか。人間以外の例も挙げてみよう。ヤドカリやカタツムリの「宿」はどちらに定義できるのか? 貝殻はどうか? 住を不動性に、衣を移動性に特徴づけるとするならば、寝台列車や船、太陽系を動く地球はどう位置づけるべきなのか。わからないことばかりである。喜ばしいことに。
近年では、「建築の衣服化」をめぐる言説も目にする。建築家の隈研吾は、布やカーボンファイバーといった素材を木材とともに建築に取り入れてゆくことを通じて、より柔らかく、自由で、人間に近しい衣服のような建築を目指していると、多くのインタビューで語っている(2)。そのまなざしは、コンクリートによる「固い建築」へのアンチテーゼという特有の文脈を有するにせよ、住居と衣服との接近に関するひとつの事実を垣間見ることができる。
冒頭の問いに対する私の暫定的かつ感覚的な応答は、衣と住にはじつは本質的な差異などないのではないか、というものだ。そのうえで、この論考において、衣も住もまったくの専門外である私が試みたい作業を言葉にするならば、それは「住の試着」である。いまは食が間に入ることで隔てられている衣食住の衣と住を、隣り合わせにしてみること。そして衣と住の区分不可能性をある種の前提としたうえで、住について語ることが衣をも想起させうる可能性を、試着室の鏡の前に立たせてみることである。
まず考えてみたいのは、住を不動性において特徴づけようとすることの認識論的課題である。ふつう、建物は動かない。ゆえに人間の安住の地となり、帰る場所となると同時に、それはたとえば条里空間の結び目にもなる(3)。こうした思考は、たどれば人間の本質として「住まうこと」を見いだし、建てられたものの内側で思考する人間の姿を問うたハイデガーと出会うことになるであろうが(4)、より人類史的なスケールにおいて彼の西洋的な定住主義的思考は様々に批判されてきた(5)
また、ティム・インゴルドはその人類学的思慕のなかで、住まうことを歩くことと連続的にとらえてきた。彼はハイデガーからジェームズ・ギブソン、そしてカール・ポランニーへと思考の橋を架けながら、次のように述べる。
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